未分類

信用のもろさと強さ

信用を培うことが大事であることは
誰だってわかることで、

でも、意識してないといつの間にか
信用失っている、という事態になりかねません。

こういう、「もろさ」が
信用にはあって、

あたりまえのように今までは
培えていた信用が
急に地に落ちるという「もろさ」があります。

蓄積されて、積み重ねられたら
それが崩れる可能性というのは
必ずあります。

これがあるから
信用は大事だということが
叫ばれ一生懸命信用を積み上げます。

でも普段意識していないので
ともすると忘れがちな
この信用ですが、

失うとかなり痛手になる
ということは明白で、

信用があるからこそ
いわゆる「自由」の幅が広がります。

信用を失うとは
その自由度が、社会で生きていく上での
自由がなくなり、

制限が加えられやすくなる
状況に陥ることです。

じゃあ必死になって信用を培い、
信用下げないようにするかというとそうでもなくって、

なんとなく
信用そのものがみえていないから
努力がしにくいという側面があります。

信用あるなしが
わかることはもちろんあります。

お客さんが、
購入できると思っていた商品が
いつも在庫切れで買えないとか

納期を守れなくて
信用なくすとか

色々ありますけど、
でもそれは起こった後に自覚することで
「信用」を意識して

「信用」のために
動くというのは難しいです。

この難しさの原因は


信用そのものが「もろさ」と、
人を自由にさせる「強さ」を併せ持っている
からではないでしょうか。

連絡係の中枢にいるということ

間にはいってビジネスやるのは少していこうがあります。

連絡係は人と人の間に入って、
連絡回す、などなど
が基本業務の流れです。

これ、嫌なんだけど
どう嫌かというと、
気持ち悪さがあって、

今日はこの不快感について話していきます。

職場では目立つ方です。
電話が鳴れば基本的に一番初めにに出るし、
来客のあった時も一番初めに口を開いています。
います。

その間、みんなの注目の的です。
社内連絡で話してる時間も営業さんの次に長いかもしれません。

コミュニケーションの現場をまなざされるというここち悪さを常に感じます。

いつもこの誰かにまなざされている。

何かあったら真っ先に対応しなきゃならないつらさを細かく見ていくと、
まなざされていると同時に突き動かしてくるあの落ち着きのなさ。

常に応答責任が振りかかってくる、
応え続けなければならないあの逃げ場のなさ。

いつ何が襲ってくるか分からない
居心地の悪さがノンストップで襲ってきます。

もう連絡係に未来はない。
とおもわれがちですが、
唯一希望があり、

それは、今いる場所に満足せずに
常に脱却するための
抜け道をさがすことに長け始めるというところでしょうか。

気配りは心配り?

気配りについてです。

これって本当に大変だなと思います。

私はこの頃会社で攻撃されてますが、
その最たる理由が

「気を配れないから」

だと思ってます。

自分でも何故気を配れてないのか、
よく分からなくて
七転八倒してるわけですが、

この頃なんとなく掴めてきました。

気配りの実感

下っ端は下手すると経営者より
気配りや全体を見る目が必要です。

うまく、スムーズに仕事が流れるように
あらゆるものごとに
気を遣い、気を配ります。

初め、
この気配りが必要なことに気づいたとき、
すごく嫌な気分になりました。

だって毎日毎時間毎秒
気を配ってないといけないなんて
なんという労働量だろう、と
ものすごく嫌になりました。

しかも、それがいつ終わるか分からない、
そんな役回りだったから

本当に投げやりになって、
逃げ癖がついてきたと思います。

気配りに心は必要か

でも、この「気配り」ですが、
意外に習慣になれば問題ない
ということに気づきました。

よく、この「気配り」は
心遣いと一緒にされて、

他者に対する思いやりということが
問われるかと思います。

でも、実感としては、
けっこう技術的な、
型にはまったふるまいの方が近いです。


とりたてて人の役に立ちたいとか、
補助してあげなきゃとか、

そういった心の部分はほとんど
意識されてなくて、

どちらかというと、張っていた
「気」の流れが遮られないように
自動的に対処する

という感覚に近いです。

意外にマインドがどうの
ということよりも、

いかに技術的に行動を
修正するかという点
が大事だったりする典型的な例になるのではないか

と思った次第です。

29歳が近づいて思うこと

以前、「何ものか」になるには、
それ以外の「何ものか」になることを
捨てること…といったような

ことを書きましたが、
今日はそこからさらに今思うところを
つらつら書いていきます。

私事ですが、今年の7月で29歳になります。

歳月が経つのははやいもので、
よくある話ですが、まだ気分は
高校生のままです。

でも、もうすぐ30歳になるためか、
実感していることがあります。

それは、どんどん
「何ものであるか」が
決まってきているな、という感覚です。

20歳くらいのときは
なんとか価値ある人間になろうとして
自分は「何ものであるか」を探すのですが、

この歳になると、
「何ものであったか」の振り返り
をするようになるなと。

そして、あれ?「何ものか」に
なってるじゃないか!って
気づきます。

あんなにあこがれ、求めた
「何ものか」に
なってしまっている!?

しかもその「何ものであったか」は
別に自分で探して得たの
ではなくていつの間にか
そうなっていたという感覚です。

やっぱり「何ものか」とは
自分で決めたり、探したり、求めたり、
するものではなくて。

おのずとそうなってくるもの
なんだなと。

もっと言うと、
この「おのずから」は
ほんとうにおのずから

なのであって、
自分で意図して「何ものか」
になった感じはしません。

同時に

他者、あるいは世界、あるいは社会
から問われて問われまくった
果てにこうなった、という感覚もあります。

初めは自分が「何ものか」問うていたのに

他者の問いになって「何ものか」になっていた

というどちらが問いの主体なのか
分からなくなって
ぐるぐるめまいのする感覚です。

「何ものか」を問うている
主体と客体が入れ替わったり、
もとに戻ったりして

ぐるぐる回って
結局両方とも違いがなかった、

ってなるところに「何ものか」が
現れるのかもしれません。

歓待の理論に触れて

歓待の理論に初めて…
ではないですが、
改めて触れてみましたら発見があったので、

感想を書いていきます。

どういうところが
グッときたかというと、

やはりお客はそれまでの
自分たちの世界、常識から抜け出させて
くれる存在で、

そのお客そのものは
自分にとっての敵にもなりうるし、
お客にもなりうる。

でも、どちらに転ぶか
分からないというところが
大事です。

吉と出るか、凶と出るか分からないけれども
お客に対して
歓待するというところが面白いなと思いました。

大学生時代、
この歓待の理論には触れたことが
ありますが、

改めて読んでみると
お客さんに対するイメージは
まったく同じだなと実感しました。

お客は敵になりうるということで、
このあたりが日頃の会社の
業務の中で強烈に痛感するところでした。

お客が敵になる可能性を秘めているのに
招き入れてしまう。

そういう話になりますが、
私の場合はもう入口の時点で

商売おことわりということになります。

すべて接するお客には
丁寧に、ミスなく接するのが
あたりまえとされています。

でも、やっぱりたまには
できない時が合って
その部分をどう教育していくかが問題にも
なりうるということを忘れっちゃだめですね。

読書する身体

皆さんは読書するとき、
どのよな気分、体調、意識で
いますか?

今日はその読書について、
最近特に思っていること、
感じるようになったことを

書いていきたいと思います。

このごろ、
読書することでものすごく
体力使ってるなと思います。

紙のほんであればなおさらで、

ページをめくること、
ページめくるときに本を若干
持ち替えたり、

しおりを挟んだり、
本を閉じたり、
本の帯がはずれないように支えたり、

ものすごく体力、というか
指や腕の筋肉を使っているなという
印象です。

しかし、この見るからにそうだな
とわかる身体とは別で、

やはり感動した、怒れてきた、
楽しかった、など、

本を読んでいて湧いてきた
感情一つ一つを受け止めるために、
ものすごく体力を使うなと。

体育会系とまで言わないまでも、
それくらい言葉を受け止めることって
大変です。

読書というと、
受動的なインプットをイメージしますがが、
まったくもって能動的なイメージです。

どんな展開になっても
本をはなさないという信念がどこまであるかが問題です。

自立・依存を問うということ

その人が自立した人か、
はたまた依存体質かどうか、
これははいったいどこで判断されるのでしょうか。

どこで判断されているかというと、
単に取り組む姿勢というか、
正直「見た目」だと思ってます。

よくやる気がないとか
意欲がないとか言われます。

これなんでかなー
って考えた結果、

単に嫌そうな感じかもし出したり、
投げやりだったり、
相手に遠慮なしに仕事投げるからです。

そんないい加減な気持ちでいると、
それが相手にも伝わり、
相手に依存してるとみなされます。

面倒だから責任を押し付けているな、
と悟られたらもう依存体質の
烙印が押されます。

では、自立しているとみなされるときは
どういった場合でしょうか。

相手に誠意が伝わっているときや、
努力していることがわかるとき。

出来ないかもしれない
けれども自分でやってみよう
とする姿勢とかでしょうか。

この、
どうなるか分からないけれども
相手が困らないように

努力しているかどうか、
それが見られるのだと思います。

ところで、
また別の視点で考えてみたら、
私たちは圧倒的な依存状態にいるともいえます。

みんな地球上のこの大地に
完全に依存してるし、

生まれてきたのだって
自然の法則に依存して、
なされるがまま生まれてきました。

本来、私たちは
依存体質の方がが強いとも言えます。

そして、ここまでくると、


そもそも自立しているか
依存してるかが
場合によって異なるということは、

そもそも問うことができない
テーマかもしれないな、と思えてきます。

なので、結局はどう見えるか、
どういう姿勢がその場で求められているか
相手の立場次第なんだなと思えてきます。

聴くことの能動性

聴くということについて
考えていきたいと思います。

聴くことは一見受動的であるかのように
みえますが、実はとてつもなく能動的な
営みなのではないかというお話です。

アイデア出し、ブレインストーミング的な
ことを会社でしました。

企画立案の会議があり、
考えてきたアイデアをもちよって発表する場です。

そして、予想通り
皆ぎこちない感じで
発言したり、しなかったりの状態でした。

ここですごく問われたのは
じっと発言する人の話を聴くことでした。

とても根気と、辛抱強さが
要求されました。

この中で意識されることがありまして、
聴く側にもある程度の体力が
要求されているということです。

どういうことかと言うと、
適切な時に適切な合いのてを
入れられるかどうかということです。

出てきそうになる言葉を、
まだ言語化されていないような言葉を、


まだ表に出てきていない言葉のうごめきを
聴くということ。

これが聴く力だなと。

聴くということはひたすら
相手の発言に集中することだと思ってましたが、

相手の発言以前のことばに耳を貸すという
とんでもない労力を必要とする行為でした。

ものすごく体力を使う行為だと思い始めました、

そして、その発言以前のことばの
ごちゃごちゃを目の前の相手と一緒に
体感することなのだと思いました。

「待つ」という受動的な言葉で
あらわされることが多いですが、

ところがどっこい

相手の言葉にならないことばを
聴き分けにいく、というとても
積極的な事態でした。

そこでうまい具合に合いの手を入れたりして、
受け皿になったりもする。

そういった機敏な動きも必要とされる
体育会系な出来事でした。

お客の心は掴むもの?

お客の心を掴むことによって
商品が売れたり、取引がうまくいったりします。

お客の欲しいものを理解して、
思い通りに商談が進むことがいつだって理想です。

しかし、
この「お客の心を掴む」とはいったいどういうことでしょうか。

特にこの「掴む」という表現に違和感を覚えたので
一度因数分解していきたいと思います。

「掴む」という言葉は何か確かなものがあって
それを手で持つ、かかえる、保持するという
意味合いがあるかと思います。

分かりやすい例だとボールを掴むですが、
比喩的にも成功を掴むとか言いますね。

今回の、心を「掴む」という表現においても
この比喩表現として使われ、
実際に手にすることができるわけではないけれど、

自分で手にした確かな感覚を表現するために
心を掴むと言います。

確かに、ビジネスシーンにおいては

戦略を練って、相手の裏をかき、
スキを突き、自分の導きたい方向に話をもっていくには
どうしたらいいかを考えるので、

それがうまくいった時には
相手の心を「掴んだ」という感覚になるのは確かです。

私も、自分のビジネスや今後の展望について
理解してもらいたい人がいたんですけど、

その人にやりたいビジネスの価値や可能性を理解してもらえた
時には「カチッ」と相手の心を手にした感覚になりました。

でも、掴むという言葉に含まれるこの
一方的な感じ。

この一方的な感じがなくって、もっと「調和」に近い
感覚でした。

もっと言うと、「掴む」というより、うまく寄り添えた
感覚に近いです。最後に良い具合にまざりあうような。

どうしてもビジネスの取引になると
戦略を練って駒をうまくうごかすこと
に目がいきがちですが、

実際人間相手だとそこまで機能的な感覚はありません。

なので、お客の心を「掴む」という
感覚は合っているようで
いまいち一方的な表現だなと。

もっと相互に混ざり合うような
そんな感じの「調和」の方が、
お客の心をつなぎとめた時の感覚に近いのかなと思いました。

別にビジネス上関係ないような、
どうでもいい言葉の遊びじゃないか

と思うかもしれませんが、この視点からみると
なかなか人間関係が深くなんじゃないかと思います。

このお客の心は「掴む」ものではなくて
「調和」する、という姿勢で対峙すれば、

どのように、相手のいいところと
自分のいいところが混ざり合うか
その交差点を探しに行くのではないでしょうか。

手を伸ばして掴みに行くと思いきや
逆に相手の良さを引き出して、

掌で遊ばせることがお客に寄り添う、
ということだったりします。

相手の魅力を引き出すことが「調和」に必要な条件
であることが分かりました。

ちなみに、ここで間違えてはいけないのは、
「調和」しに行くべき
と言っているのではなくて

よく観察するとこうなっているよ、という
ことでしかありませんからね。

人の心は「掴む」「掴まない」ではなくて
「調和」するものという見方をすると

ちょっと違った視点で
嫌なお客さんとも話せるかもしれません。

キャラとか役割とか

キャラを作ろうとする
ことについてです。

キャラは作ろうと思っても
作れないなという話をしようと思います。

あの人のあのキャラいいなと言うとき、
たいてい自然に出来上がったものだと思うのです。


キャラは作るというより勝手に
そうなった結果である場合が多いと考えます。

キャラと同じような言葉で
組織で生きる上では免れない「役割」がありますが、
どちらも作られようとするけれど、

うまくはまったキャラなり役割なりは、
「勝手に」できた感覚の方が強いのではないでしょうか。

「キャラ」も「役割」も、
作るものではなくてすでに出てきたもの
すでにそこに生まれていた関係ということを忘れてしまいがちです。

自ずから出てきたものであって、
軌跡を辿って形を描くと役割とか
キャラとかが浮かびあがっただけの話しではないかと。

そう思わないで
キャラや役割は作るものという考えでいると
おかしいな、役割分担上手くいかない…

となると思います。

始めはただ意図的に
役割分担して、
やってみて


そのあとであの人はやっぱりこれと逆の役割がいいとか
そんなのがあとから分かることもあったりして、
意図的に配置してみて勝手にわかることです。

とにかく役割作って
それで固定的にとらえると
役割の変わり目がみきわめられなくなります。


役割についてもっとみていくと、


具体的には
まとめ役とフォロー役があります。

誰がどちらに向いているとか
決めつけずになんとなく
誰がリーダーかそうでないか

おのずとわかってくるところが
あります。

個人的な感覚を言えば、
フォロー役はしんどそうですね。

出来ない人、置いてかれる人。
人のこと見ないといけないので
寄り添いがかなり必要です。

でも明らかにリーダーが見えていない
ところがみえているということもあります。

会社にて、アイデア出しの企画会議はどんどん
形にする方向で話がまとまりつつあります。

こぼれ落ちていく
アイデアもたくさんあります。

形にするとは
形にするに必要なもの以外を切り捨て
ますから自分のアイデアに思い入れある人は

窮屈さ感じるかもしれないな、
と思いました。

そんな人たちにとって、
リーダーはまとめあげるために
切り捨てをするから、

ちょつとした極悪人に見えます。

私も大学生時代、
サークルとか、バイトでリーダー
やったことありますけど、苦手ですね。

目立ちもしますから。

皆んなに一挙手一投足
批評されてるみたいなので。

皆んながつくろうとしている
ものに迎合できない人、
これをどう拾うかが暗黙の裡に問われているかのような気がします。

このように、どんな人がリーダーに
向いているいないとかは、


いろんな立場や役割を経験する中で
わかってくるものなので


キャラとか役割とかは
「動き」をもっている、
そう肝に銘じておいた方がいいなと思いました。