2021年 2月 の投稿一覧

自立・依存を問うということ

その人が自立した人か、
はたまた依存体質かどうか、
これははいったいどこで判断されるのでしょうか。

どこで判断されているかというと、
単に取り組む姿勢というか、
正直「見た目」だと思ってます。

よくやる気がないとか
意欲がないとか言われます。

これなんでかなー
って考えた結果、

単に嫌そうな感じかもし出したり、
投げやりだったり、
相手に遠慮なしに仕事投げるからです。

そんないい加減な気持ちでいると、
それが相手にも伝わり、
相手に依存してるとみなされます。

面倒だから責任を押し付けているな、
と悟られたらもう依存体質の
烙印が押されます。

では、自立しているとみなされるときは
どういった場合でしょうか。

相手に誠意が伝わっているときや、
努力していることがわかるとき。

出来ないかもしれない
けれども自分でやってみよう
とする姿勢とかでしょうか。

この、
どうなるか分からないけれども
相手が困らないように

努力しているかどうか、
それが見られるのだと思います。

ところで、
また別の視点で考えてみたら、
私たちは圧倒的な依存状態にいるともいえます。

みんな地球上のこの大地に
完全に依存してるし、

生まれてきたのだって
自然の法則に依存して、
なされるがまま生まれてきました。

本来、私たちは
依存体質の方がが強いとも言えます。

そして、ここまでくると、


そもそも自立しているか
依存してるかが
場合によって異なるということは、

そもそも問うことができない
テーマかもしれないな、と思えてきます。

なので、結局はどう見えるか、
どういう姿勢がその場で求められているか
相手の立場次第なんだなと思えてきます。

聴くことの能動性

聴くということについて
考えていきたいと思います。

聴くことは一見受動的であるかのように
みえますが、実はとてつもなく能動的な
営みなのではないかというお話です。

アイデア出し、ブレインストーミング的な
ことを会社でしました。

企画立案の会議があり、
考えてきたアイデアをもちよって発表する場です。

そして、予想通り
皆ぎこちない感じで
発言したり、しなかったりの状態でした。

ここですごく問われたのは
じっと発言する人の話を聴くことでした。

とても根気と、辛抱強さが
要求されました。

この中で意識されることがありまして、
聴く側にもある程度の体力が
要求されているということです。

どういうことかと言うと、
適切な時に適切な合いのてを
入れられるかどうかということです。

出てきそうになる言葉を、
まだ言語化されていないような言葉を、


まだ表に出てきていない言葉のうごめきを
聴くということ。

これが聴く力だなと。

聴くということはひたすら
相手の発言に集中することだと思ってましたが、

相手の発言以前のことばに耳を貸すという
とんでもない労力を必要とする行為でした。

ものすごく体力を使う行為だと思い始めました、

そして、その発言以前のことばの
ごちゃごちゃを目の前の相手と一緒に
体感することなのだと思いました。

「待つ」という受動的な言葉で
あらわされることが多いですが、

ところがどっこい

相手の言葉にならないことばを
聴き分けにいく、というとても
積極的な事態でした。

そこでうまい具合に合いの手を入れたりして、
受け皿になったりもする。

そういった機敏な動きも必要とされる
体育会系な出来事でした。

お客の心は掴むもの?

お客の心を掴むことによって
商品が売れたり、取引がうまくいったりします。

お客の欲しいものを理解して、
思い通りに商談が進むことがいつだって理想です。

しかし、
この「お客の心を掴む」とはいったいどういうことでしょうか。

特にこの「掴む」という表現に違和感を覚えたので
一度因数分解していきたいと思います。

「掴む」という言葉は何か確かなものがあって
それを手で持つ、かかえる、保持するという
意味合いがあるかと思います。

分かりやすい例だとボールを掴むですが、
比喩的にも成功を掴むとか言いますね。

今回の、心を「掴む」という表現においても
この比喩表現として使われ、
実際に手にすることができるわけではないけれど、

自分で手にした確かな感覚を表現するために
心を掴むと言います。

確かに、ビジネスシーンにおいては

戦略を練って、相手の裏をかき、
スキを突き、自分の導きたい方向に話をもっていくには
どうしたらいいかを考えるので、

それがうまくいった時には
相手の心を「掴んだ」という感覚になるのは確かです。

私も、自分のビジネスや今後の展望について
理解してもらいたい人がいたんですけど、

その人にやりたいビジネスの価値や可能性を理解してもらえた
時には「カチッ」と相手の心を手にした感覚になりました。

でも、掴むという言葉に含まれるこの
一方的な感じ。

この一方的な感じがなくって、もっと「調和」に近い
感覚でした。

もっと言うと、「掴む」というより、うまく寄り添えた
感覚に近いです。最後に良い具合にまざりあうような。

どうしてもビジネスの取引になると
戦略を練って駒をうまくうごかすこと
に目がいきがちですが、

実際人間相手だとそこまで機能的な感覚はありません。

なので、お客の心を「掴む」という
感覚は合っているようで
いまいち一方的な表現だなと。

もっと相互に混ざり合うような
そんな感じの「調和」の方が、
お客の心をつなぎとめた時の感覚に近いのかなと思いました。

別にビジネス上関係ないような、
どうでもいい言葉の遊びじゃないか

と思うかもしれませんが、この視点からみると
なかなか人間関係が深くなんじゃないかと思います。

このお客の心は「掴む」ものではなくて
「調和」する、という姿勢で対峙すれば、

どのように、相手のいいところと
自分のいいところが混ざり合うか
その交差点を探しに行くのではないでしょうか。

手を伸ばして掴みに行くと思いきや
逆に相手の良さを引き出して、

掌で遊ばせることがお客に寄り添う、
ということだったりします。

相手の魅力を引き出すことが「調和」に必要な条件
であることが分かりました。

ちなみに、ここで間違えてはいけないのは、
「調和」しに行くべき
と言っているのではなくて

よく観察するとこうなっているよ、という
ことでしかありませんからね。

人の心は「掴む」「掴まない」ではなくて
「調和」するものという見方をすると

ちょっと違った視点で
嫌なお客さんとも話せるかもしれません。

キャラとか役割とか

キャラを作ろうとする
ことについてです。

キャラは作ろうと思っても
作れないなという話をしようと思います。

あの人のあのキャラいいなと言うとき、
たいてい自然に出来上がったものだと思うのです。


キャラは作るというより勝手に
そうなった結果である場合が多いと考えます。

キャラと同じような言葉で
組織で生きる上では免れない「役割」がありますが、
どちらも作られようとするけれど、

うまくはまったキャラなり役割なりは、
「勝手に」できた感覚の方が強いのではないでしょうか。

「キャラ」も「役割」も、
作るものではなくてすでに出てきたもの
すでにそこに生まれていた関係ということを忘れてしまいがちです。

自ずから出てきたものであって、
軌跡を辿って形を描くと役割とか
キャラとかが浮かびあがっただけの話しではないかと。

そう思わないで
キャラや役割は作るものという考えでいると
おかしいな、役割分担上手くいかない…

となると思います。

始めはただ意図的に
役割分担して、
やってみて


そのあとであの人はやっぱりこれと逆の役割がいいとか
そんなのがあとから分かることもあったりして、
意図的に配置してみて勝手にわかることです。

とにかく役割作って
それで固定的にとらえると
役割の変わり目がみきわめられなくなります。


役割についてもっとみていくと、


具体的には
まとめ役とフォロー役があります。

誰がどちらに向いているとか
決めつけずになんとなく
誰がリーダーかそうでないか

おのずとわかってくるところが
あります。

個人的な感覚を言えば、
フォロー役はしんどそうですね。

出来ない人、置いてかれる人。
人のこと見ないといけないので
寄り添いがかなり必要です。

でも明らかにリーダーが見えていない
ところがみえているということもあります。

会社にて、アイデア出しの企画会議はどんどん
形にする方向で話がまとまりつつあります。

こぼれ落ちていく
アイデアもたくさんあります。

形にするとは
形にするに必要なもの以外を切り捨て
ますから自分のアイデアに思い入れある人は

窮屈さ感じるかもしれないな、
と思いました。

そんな人たちにとって、
リーダーはまとめあげるために
切り捨てをするから、

ちょつとした極悪人に見えます。

私も大学生時代、
サークルとか、バイトでリーダー
やったことありますけど、苦手ですね。

目立ちもしますから。

皆んなに一挙手一投足
批評されてるみたいなので。

皆んながつくろうとしている
ものに迎合できない人、
これをどう拾うかが暗黙の裡に問われているかのような気がします。

このように、どんな人がリーダーに
向いているいないとかは、


いろんな立場や役割を経験する中で
わかってくるものなので


キャラとか役割とかは
「動き」をもっている、
そう肝に銘じておいた方がいいなと思いました。

あいさつが痛い

あいさつするのが苦しい、
あるいはあいさつされるのが苦しい人へ。

あいさつの虚しさ

私は小学生の頃から
何故あいさつしなきゃならないのか
わからなくて躓きました。

今よりも人見知りで
コミュ障だったので

用もないのにわざわざ
あいさつしなきゃならない
理由が分からなくて辛い思いをしました。

なので、
それが礼儀だとか、あいさつした方が信頼されるとか、
あいさつした方が人間関係が楽になるとか言われますけど、

あいさつする方が逆に辛くなります。

高校生のとき、山の中の自然の家みたいな
ところに合宿にいって、
学年、クラスの交流を深める機会がありました。

そこであいさつを訓練してみればいいって
誰か先生が言ってたから

滞在の3日間くらい
めっちゃ元気にあいさつしてました。

でもその時感じたのは
どこまでも虚しさで、

元気にあいさつして
いい子になろうとしてるゲスい自分
が分かってよけい辛くなるだけでした。

じゃあ、
あいさつされたらどうかと言うと

それも辛くて、
あいさつが矢のように突き刺さります。

むりやり応答させられる
脅迫されてるような
胸がどうっとするような。

あいさつの不思議

単なるあいさつでここまで
大袈裟になるのは
馬鹿らしいと言われるかもしれません。


でも、考えてみるとすごく不思議な
「あたりまえ」です。

あいさつが辛いのは
その言葉自体に意味はないにも
かかわらず、応答しないといけないからだろうなと思います。

おはようございます
こんにちは
こんばんわ

すべて言葉自体には意味なく
反応することに意味があります。

元々の意味はあるけれど、
それはもう意識されていません。

この意味のない言葉で
反応し、反応されるという謎がここにあります。

もちろんあいさつすることによって
信頼され、第一印象もよくなります。

でも、それはあとづけで、
あいさつするその場では
何をやっているのか皆んな分からないでやってます。

何故あいさつするのか。
本当のところは
わかっていないから、


あえて気づかないよーに

ささいなことであるかのよーに

見て見ぬふりをしている、
と思うのはうがった見方でしょうか…

生きている意味とは何か。
問い始めたらきりがなくて前にすすめない
からあえて問わないのと同じような感じで。

そして、もしかしたら、


この不思議な現象を不思議な現象として
知りつつあいさつしている人と
そうでない人とでは

あいさつの奥行きが違うのかもしれません。

あいさつの奥行きって、あるのかどうか知りませんけど…

自働化でコミュニケーションが減る?

質の高いコミュニケーション

たまに、仕事を自働化したら
コミュニケーションをとらなくなるとか
思う人がいますが、

逆にコミュニケーションが増えるん
じゃないかと思います。

もっと言うと、
コミュニケーションの水準が
上がるのではないかとも思っています。

単純に、時間が空けば
もっとコミュニケーションが活発に、
しかも深くなっていく気がします。

現に、祝日の仕事は時間があいてるから
会議して新商品開発しようてなってます。

あと、自分の仕事に対して
短絡的な思考をしなくなる
のではなかと思います。

事務的な、本来ルールを決めて
自働化しておけば喋らなくても
スムーズに回せることをあえて会話しているから。

そういうコミュニケーションって求めてなくね、
と思う今日この頃です。

もっと質の高いコミュニケーションがしたいのに
質の高いコミュニケーションで終わりがちになる。

環境とは関係なく
質の高いコミュニケーション
したければすればいいと、

言われるかもしれませんが…

わたしとあなたの関係が現前する
そんなコミュニケーションが
したいと思うのですが。

でもやっぱり
質の高いコミュニケーション
とはどんなコミュニケーションでしょうか

で、ここでやはり問題になるのは
人間どうしあなたとわたし
のコミュニケーションとは何かということで、

いわゆる「人間性」が問われるわけです。

この「人間性」とは何でしょうか。

おそらく、なんとはなしに
形作られる関係性のなかで
味わえるものではなかと。

他でもないあなたに仕事を依頼したい、
というやつです。

ひとことで「信頼」を得る
関係としてしまえば
済むかもしれません。

「信頼」の話をすると、
丁寧さや正確さがこの「信頼」
だとしてる場合がありますが、

これだけではないと思います。

もっと丁寧な人、もっと正確に
仕事のできる人が新たに現れたら
そっちになびかれる関係だからです。

信頼ってなんだ?

ある情報商材を1週間のメルマガオファー
で買ったことがあります。

いや、驚きましたね。
たったの一週間で信頼は築けると知りました。

私は会社であまりにもわがままばっかりで
上司から「信頼できない」
「もう信頼しない」とあきれられました。

一般的に信頼は一度くずれたら
取り戻すのに倍の努力が必要とされ、
単純に3年間上司に目の敵にされてたから

あと6年か…

とか思ったりしてがっかりしてました。

でも、信頼が一週間で成る方法があるということを知り、
期待に震えました。

ここでやはり信頼の概念が崩れます。

信頼は蓄積するものという
考え方がありますが、


そればかりではないような気がしました。

質の高いコミュニケーションは
「人間性」が感じられるもので、
それは信頼ともかかわってきます。

自働化によってこういう関係性がもっと
問われるようになると


必然的にコミュニケーションの
質はあがるのかもしれません。

アイデアのパクリ問題

今回はアイデアのパクリについてです。

それはいったい何を問題にしているのか、
そもそも問題になるのか。

考えていきたいと思います。

アイデアは誰のものか

先日、会社で新しい製品の
企画に関する話し合いがありました。

色んなアイデアを出し合って、
どれを形にするかを検討する会議だったのですが、

そこで、問題とまでいわないけれど
とあるメンバーにとって
ちょっと気に障る発表があったそうです。

自分の考えていたアイデアが
別の人が考えたアイデアとして
その場で発表されたそうです。

それに対して機嫌をそこねた
とかそんなに問題にはならず些細なことで済みましたが、
個人的に少し引っかかったことがあります。

何かというと、考えやアイデアが
自分のものであるというこだわりを
気づかないうちに持ってしまっていることです。

アイデアは自分のもの?

アイデアや思考はそもそも
所有されるものなのでしょうか。

アイデアは自分の頭の中でひらめくもの
というふうに認識されることが多いかなと思います。

確かに、アイデアは突然自分の頭の中で
湧いてきたから自分のアイデアということになるでしょう。

ですが、アイデアというのは実は普段
気づかなかったことに気づいた
結果でしかありません。

もともとアイデアは誰のものでもなく、
ふとしたきっかけでものの見え方が変わって
できあがった考えです。

発明品の多くは、誰もが手にするものなのに、
誰も気がつかなかった特徴をうまく利用した
ものだったりします。

なので、アイデアは常にそこにあって
誰でも掴むことのできる状態にあります。
いつでもパクられる可能性があります。

よく言われているように、
アイデアが浮かんだらすぐに形にして発表しないと、
「自分の」アイデアとして認められない節があります。

形の仕方によっては
真似されることになるかもしれませんが。

以上。

人にアイデアを盗まれた、パクられた
ということが現にあったとしても、そうされたことを
嘆くということがそもそも成立しえないのではないかという話でした。

やりがい

今日はやりがいのある仕事と
やりがいのない仕事の違いについて
書いていきたいと思います。

やりがいのある

やりがいのある仕事とは何でしょうか。
誰か思い入れのある人の意志とか。
思い入れのある人からの指示だとか。

この人は私がいないとダメなんだ、
ということで初めは使命感いっぱいで
やりがいを感じながら仕事します。

でもそれがマンネリ化してくるときついもので、
相手もこっちがどうこうしてくれるのが
当然と思っているから、

次第にやりがいを感じられなくなるのがオチです。

だから、いつも相手が期待している
以上の価値を渡し続ければ
お互いに飽きずにやりがいを感じていられます。

これが信頼につながります。

常に相手を驚かせて、
期待を超えた価値を提供し続けることは、

相手も自分も前に進んでいる
感覚があってワクワクしてきます。

まさに請け負うことによって
自分もより生き生きしてくるような、

そんな仕事をしていると
自分に自信も持てたりします。

誰のためか

逆にやりがいを感じない仕事は
押し付けられた感じが
すごいありますよね。

おそらく「誰に向けて」
の仕事なのかがわかりにくいから。

そんな仕事はやっぱり疲れるし、
どうでもよくなってくるし、
完璧にこなす必要ないよなーとか思ってしまう。

この「誰かに向けて」
仕事をしている感覚があるかないか
が大きなポイントと思われます。

待たれている感覚

「誰かに向けて」する仕事には
どこか「待たれている」感じがします。

この「待たれている」とは何かというと、
相手から依頼がきて、それに対する
応答を確かに待たれているという感覚です。

他者とかかわるときは、
必ず応答を待たされ、待たす
ということが起こります。

どんなに些細なやりとりでも、
最低1秒くらいは返答待ちになります。

そして、この「待たれている」
という感覚の連続こそが

実は「誰かのためになっている」という感覚の
モトになっているという
事実が見えてくるわけです。

私はお客さんから何か依頼を受けた時、
けっこう待たせてしまう方です。

それに対して、


「相手を待たせているのが分からないのか!」

とか、

「待たせたら相手の信頼を失うぞ!」

とか、

よく注意されます。

でも、「待たせている」ことが
実は信頼の、あるいは仕事が成り立つための
条件だったりするわけです。

もちろん何事も過剰はよくないですし、
素直に対応が遅いことは
改善しなきゃですけど…

待たれているを探す

自分が誰かのために生きている
ことが実感できて初めて
やりがいを感じますから。

でもがむしゃらに誰かのためになる
ことを探すのではなくて

この「待たれているもの」
を探すことに焦点をあてると案外
見つかるんじゃないでしょうか。

お客に待たれて、期待に応えて
またさらに期待に応えた側も
またお客の反応を待つ

この待って待たれるのループが良い感じに
保たれ、同時に前に進んでいけば
自然と仕事は成り立つのかもしれないなと思う今日この頃でした。

つまみ食いの原理

今日は職場でのつまみ食いについて
話していきたいと思います。

職場に居る時に限らず、
私はつまみ食いすることが大好きです。

具体的な食べ物でも、勉強してみたいジャンルも
いろんなものをちょいとついばむのが好きです。

3時のおやつ

午後の3時前後にはよっぽど忙しくない限り
お菓子食べたくなります。

個包装になったクッキーとか。
キャラメルとか。

今食べるか10分後に食べるか葛藤したりして。

職場にいる時だったら、
「今電話鳴ったら私しか応対する人いないし、
先輩戻ってきたらこっそり食べよう」とかとか。

午後3時のマインドシェアは
お菓子に取られていると言っても
過言ではないです。

周りに目立たない程度にお菓子をつまみ食いする。

ここにはいったいどういう
原理が働いてるのか考えてみました。

つまみ食いの魅力

大事なのは、完全体を手にするでもなく、
仕事の合間合間に、それもちょこっとの量で
楽しむというところかと。

フルコースを食べるわけではなく、
たしなむ程度に、食べるということに
魅力があるからつまみ食いします。

たとえば時間的なところで言うと、
本来であれば仕事をしなければならない
時間の合間を縫って

わざわざお菓子を食べている、
という姿勢に魅力を感じるわけですよね。


お客さんが今来たらお菓子を
食べてる私を見てどう思うか。

今電話鳴ってくちごもってたら
どう思われてしまうか。

はらはらしながらお菓子を食べるタイミングを探ります。

けれど、このあやうさのなかで食べるお菓子は
普通に食べるのとはわけが違ってます。

危険を冒してまで味わうことのできた
お菓子の味は、実はあんまり味わえなかったりしますが、

ちょっとした危険を冒している刺激を
楽しみながら食べるお菓子がうまい。

時間のつまみぐいというところでは、
このハラハラドキドキ感が
ポイントになってきます。

また、量的なところでいえば、
しっかりと1食分食事をするのと

つまみ食いするのとでは
メインとする行為が異なるなと思います。

1食分食事するとなると
それはあくまで食事です。

でも、仕事の合間のつまみ食いとなると
仕事がメインにあって、

それを引き立てるかのようにつまみ食いをします。

つまみ食いは仕事?

職場でのお菓子のつまみ食いは
仕事の延長です。

延長と言うか、仕事を引き立てるために
現れてきた行為というべきでしょうか。

なんか口寂しいから食べるという行為の裏には
このような原理が働いているかと思います。

仕事を引き立てるための
つまみ食いだというのは分かったけれど、

じゃあなぜつまみ食いなのか。

なぜ食べなければならないのか。

それはおそらく、

仕事は常に「外」に意識を向け続ける行為だから、
食べるという「内」に向く行為でバランスでも
とってるんじゃないでしょうか。

引き立てるだけじゃなくて
バランスもとるような
役割を担っています。

つまみ食い、という一見単純な営みに
潜むちょっと驚く役割について
今日は述べてみました。

お菓子のつまみ食いは仕事する上で
必要はないけれども、欠かせない行いのように
思われてきましたね。

「何ものか」が問われるとき

働いていると、
「何ものか」であることをものすごく強いられます。

周りは強いてるつもりないかもしれないけど
私の実感としては差し迫った課題、
といった感じです。

常に問われている感じがします。

問われたきっかけ

ここ最近、仕事で失敗の連続で、ついに
営業部長から、

「お前何ができるの?何なら任せられるの?」と

責められました。

挙句の果てには休憩時間に話しかけられ、
長所は何で、短所は何で、とかいう話に。

長所を伸ばすことでしか
こいつに未来はないと思ったみたいで…

こちらも色々挙げるけれども、
でもこれといって今すぐ役立つ長所じゃ
なかったりして幻滅させてます。

昨日なんかどんな仕事なら一人でできて、
どんな仕事は他人の手を借りないとできないのか
具体的に挙げていくことになりました。

事あるごとに、何ができる人なのか
要は「何ものであるか」
色んな形で問われます。

そして、私も期待に応えようと
色んな「何ものか」を準備しようとするわけです。

問われている事柄

でも、やっぱり
「何ものか」を首根っこつかまれて、
無理やり応えるのはつらい。

だから、よくよく考えるわけですけど、
ここで具体的に問われているのは

「役に立つ何ものか」

かな、と。

なので、仕事ができなくて
役に立てなければ立てない人ほど
このように「何ものであるか」と問われてしまうわけです。

「役に立たない」から余計に向こうは
「あれ?何ができるんだっけ、この人?」と振り返らざるを
得なくなります。

そして、「何ものか」である必要性を
ことさら強調されます。

でもそれとは対照的に、
仕事ができる人は「何ものか」とはあまり問われないですね。

というか、何ものであるかわかりきっているから、
忘れられているという表現がいいかもしれませんね。

本当は思っているよりもっと
「何ものか」であるかもしれないのに、
仕事にできる人はそれ以上問題にはされないですね。

問われ直し

ここでなんと、

仕事ができる人より
仕事ができない自分の方が
相手にとって「何ものか」が意識されていると分かるわけです。

色んな角度から私が「何ものか」を見定めてくださる…

職場という場所は「役に立たないもの」
の存在を認めない風潮があります。

であるにもかかわらず、
結局仕事ができない人に一番認識が向いている
という逆説です。

まあ、ビジネスは結果・成果がすべてなので
結果に直結する「何ものか」以外はなんでもない存在、
としておきたいのは分かりますが。

実は仕事のできない人ほど
「何ものか」になれているかもしれないです。

仕事ができなければできないほど、
仕事ができないというキャラが
できあがってくるのは面白い現象です。

結局、「何ものか」であることを求めるけれども、
実は仕事がスムーズにできるようになって、

「何もの」であったか忘れ去られることを求められている、
という逆説的なことがここでは起こっているんです。

役に立つものしか認めない。
そういう固定観念になっていると
引き起こされる弊害かもしれませんね。