「何ものか」が問われるとき

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働いていると、
「何ものか」であることをものすごく強いられます。

周りは強いてるつもりないかもしれないけど
私の実感としては差し迫った課題、
といった感じです。

常に問われている感じがします。

問われたきっかけ

ここ最近、仕事で失敗の連続で、ついに
営業部長から、

「お前何ができるの?何なら任せられるの?」と

責められました。

挙句の果てには休憩時間に話しかけられ、
長所は何で、短所は何で、とかいう話に。

長所を伸ばすことでしか
こいつに未来はないと思ったみたいで…

こちらも色々挙げるけれども、
でもこれといって今すぐ役立つ長所じゃ
なかったりして幻滅させてます。

昨日なんかどんな仕事なら一人でできて、
どんな仕事は他人の手を借りないとできないのか
具体的に挙げていくことになりました。

事あるごとに、何ができる人なのか
要は「何ものであるか」
色んな形で問われます。

そして、私も期待に応えようと
色んな「何ものか」を準備しようとするわけです。

問われている事柄

でも、やっぱり
「何ものか」を首根っこつかまれて、
無理やり応えるのはつらい。

だから、よくよく考えるわけですけど、
ここで具体的に問われているのは

「役に立つ何ものか」

かな、と。

なので、仕事ができなくて
役に立てなければ立てない人ほど
このように「何ものであるか」と問われてしまうわけです。

「役に立たない」から余計に向こうは
「あれ?何ができるんだっけ、この人?」と振り返らざるを
得なくなります。

そして、「何ものか」である必要性を
ことさら強調されます。

でもそれとは対照的に、
仕事ができる人は「何ものか」とはあまり問われないですね。

というか、何ものであるかわかりきっているから、
忘れられているという表現がいいかもしれませんね。

本当は思っているよりもっと
「何ものか」であるかもしれないのに、
仕事にできる人はそれ以上問題にはされないですね。

問われ直し

ここでなんと、

仕事ができる人より
仕事ができない自分の方が
相手にとって「何ものか」が意識されていると分かるわけです。

色んな角度から私が「何ものか」を見定めてくださる…

職場という場所は「役に立たないもの」
の存在を認めない風潮があります。

であるにもかかわらず、
結局仕事ができない人に一番認識が向いている
という逆説です。

まあ、ビジネスは結果・成果がすべてなので
結果に直結する「何ものか」以外はなんでもない存在、
としておきたいのは分かりますが。

実は仕事のできない人ほど
「何ものか」になれているかもしれないです。

仕事ができなければできないほど、
仕事ができないというキャラが
できあがってくるのは面白い現象です。

結局、「何ものか」であることを求めるけれども、
実は仕事がスムーズにできるようになって、

「何もの」であったか忘れ去られることを求められている、
という逆説的なことがここでは起こっているんです。

役に立つものしか認めない。
そういう固定観念になっていると
引き起こされる弊害かもしれませんね。

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