2021年 5月 の投稿一覧

教えるということ

人に教える時、

私たちはその人にコンテンツを
提供しているかのうように思えますが、

どうもテキストを提供することが
教育の本質であり、
あくまで人から勉強を教わる仕方を

学んでいるんだと思います。

漫画やアニメから学ぶこと

漫画やアニメ、あるいは小説の世界が面白くっても
それらはしょせんフィクションの世界
の話であって、現実とはなんら関係がない…

そう言い切ってもいいはずなのに
そう言い切れないところがあります。

現にこういった物語を楽しむとき、
私たちは思いっきり現実のことと
照らし合わせながら楽しんでます。

で、結構現実においても役立つような
行動指針を示していたりして、
よく分からないやる気につながたりします。

現実に起こっていることではない、
けれどもそのエッセンスや作者の伝えたい
意図は現実においても応用できる、

そういうわけで
コンテンツを味わうことは
現実と照らし合わせてることが根底にあると分かって、

現実ではないはずなのに
現実に影響を与えるのは当然のこと
だっていうことに気付きました。

覚悟は周りから与えられるもの

自分なりの情報発信を始める時、
かならず覚悟が問われます。

色んな批判に耐えられるか、
あんなイヤ味やこんなイヤ味を言われるんじゃないか、
なんていう不安とか恐怖とかと闘いながら。

どんな辛い事言われてもやり切れるかどうか
自問自答しながら挑戦するか否か考えるかと思います。

また前みたいにしっぽ巻いて逃げてしまうのではないか…

そういう不安が襲ってくるわけですが、
でも前に進まないと先がない、なんて時があります。

そういう時、いつもうだうだ考えて
優柔不断さを見せたりして、
会社の先輩にあーだこーだ行動力がないとか

主体性がないとか積極性がないとか言われるわけです。

その度に、ああ自分はなんて覚悟がないんだろう
とか思ってジメジメ考えるというパターンが
いつものパターンです。

ですが、ここのところはまってる
贈与論のおかげで一つこの覚悟に関する
ヒントのようなものを見つけました。

それはどこまでも周りからの要請があって、
覚悟というのは決まるんだなということです。

覚悟って自分の中から湧いてくるものでは
ないんですね。

あの人の要請に応えられるのは
自分しかいない、そんな思い込みが
人を強くします。

ジャンプ作品なんかを読んだり、
アニメを見たりしていると、
主人公が挑戦したり、戦う覚悟を決したりするときって

たいてい尊敬する先生の言葉だったり、
先に死んでいった人たちの意志っていうのが

主人公の支えになって
ダイナミックな行動につながったりしています。

どこまでも周りからの強い思いとか
そんなのが行動のきっかけになっています。

当たり前と言えば当たり前ですよね。

でも、自分にはそんなズシリとくるような
言葉や、友達や、師匠に逢ったことがないけど

そんな自分には覚悟とか行動力はめばえるんでしょうか、、、

そういう場合に出てくるのが贈与論です。

贈与論では、なんの変哲もない石ころに対して
「これは自分への贈り物だ」と錯覚することで
贈与が始まったとされています。

ここで、「自分への贈り物だ」と錯覚する
きっかけが「ありがたい」「存在可能性が少ない」
という感覚です。

今この場で、このタイミングで、この
石ころに出会っているのは
この私だけだ…

その感覚が個人の行動力に火をつけます。

この感覚というのは信仰ともからんでくるらしいです。

個人という枠を超えたもっと大きな何かを
直観する、というやつですがここでは
これ以上踏み込みません。

要は、自分にしか贈られてない、
自分にしか伝えられない、

だから自分にはこれを全く知らない
人に贈与する必要がある、
なんて思うことで贈与のループが始まるんです。


だから、情報発信したり、他人に
自分の意見を伝える時の覚悟は、

「自分にしかこのことは伝えられない」

という使命感を錯覚させるような
コンテンツによって
勝手に芽生えてくるものなんだと思います。

ずらし

なぜかねらったところではなくて
少しずれたところに着地する、という経験
がよくあります。

達成したい目標ではなくて
そこから少しずれたものの達成です。

これについて、
ずらしというかズレ、ですけど、
それよりも揺らぎの方が当てはまる気がしてます。

他者がいない

何故私は職場で期待を裏切りまくるのか、
できることがない、任せられない、なんてことを
よく言われるのかについて考えてみました。

一言で言うとやる気が湧かなくて
怠けてしまうから、というのがあるんですけど


じゃあなぜやる気がないかというと、
言い訳にしかなりませんが、

「どうしてもその仕事を今行う必要性」
を感じないからです。

もう苦しくて、苦しくて、どうにも
大変で大変で猫の手も借りたいという
ような場面に職場で遭遇したことがありません。

ほんと何様のつもりだよ、という感じですが、
本当にそうなんです。

哲学者のレヴィナスが、
「他者」は必ず何かを欠いた存在である、
というようなことを唱えていたようですが、

何かが足りていない存在に遭遇して
はじめて「他者」として認めることができます。

なので、足りないもののない職場では、
「他者」のいない職場では
どこまでも自己中になってしまいます。

でも、約束守って、信頼される立派な大人に
なりたいそんなときはどうすればいいのでしょうか。

もうおのずと分かってくるかと思いますが、
それは相手が「他者」になり得そうな要素を
こちらから探しに行けばいいです。

どうにも来月赤字であれば
翌々月は会社がつぶれる、等々
もがくほど苦しいことが分かるようなデータを探します。

探し出したら自分の言葉で
考えてみてください。

役に立つ

役に立つか分からないものが
ビシッと役に立つ時、


感動させられます。

いつでもこのギャップによって
感動と機能的価値のふり幅を大きくしているなと。

恋と消費

Jポップによって恋愛が商品化されて
恋愛がテンプレート化している。

という評論を目にしたので、
湧いてきた問いを並べていきたいと思います。

そもそも愛と違って、恋愛って元来消費されやすい
性質を持ってるなと思いました。

あのわくわく感は期間限定だし、
コンテンツになって売り買いされやすい
という構造がもともとあるよな、と。

考えてみれば、アニメキャラに
惚れたりして浮かれたりしてますけど、
そういえば意図的にかっこよく描かれて、

意図的に惚れさせられていたと
言われればそんな気もします。

こういう意図に気付くとなんだか
興がさめますが、

逆にパターン化されていない恋、
期間の限られていない恋ってあるかというと
そんなものはないなと。

けっこう恋愛のパターンは決まっていて、
だからこそ今では恋愛の仕方を商品化して
それをコンテンツとして販売する流れもあるくらいです。

こういうとなんだか
恋愛が本当に商品化して
していく感じがして嫌になりますねー。

でも恋愛で成功する仕方を
販売するというのは
ある意味人の役に立ってるから

単なるのろけ話で終わらない、
「人に価値を与える」恋愛が展開されて
きているとも言えます。


恋愛とビジネスは
なかなか一筋縄ではいかないですね。



希少性と贈与

今日も贈与論から少し考えてみたいと思います。

ビジネス心理学の中でもこれまた言われている
ことですが、限定期間を設けるなどして
「希少性」をアピールしたら

商品が売れやすくなるという理論に
「希少性の法則」があります。

なにも期間だけではなくて、
特定の人のみに販売していることを
アピールする場合もあるでしょう。

ですが、場所を利用して
希少性を出す場合ってまれだなと
なんとなく思ったので、これについて少し触れます。

まず、人は差し出された
ものや呼びかけに対して、基本的には
自分宛かな?と思う傾向があります。

現に贈与論の中で、
自分宛のものかわからないけれども

自分宛のギフトだと思い込んで初めて
贈りものは贈りものになる
という理論があります。

このことから、その時その場で
差し出されている人間が自分だけであれば、
それだけで信用してくれるだろうということが分かります。

なので、案外無理やり
意図的に希少性をアピールしなくても

あるていど相手に響く事柄で
場面設定ができているだけで
相手に刺さる内容になるかもしれません。

細かくどんな状況にあるお客さんを
ターゲットにしているかとか、
どのような場面で使われるかを紹介するだけでも

勝手に希少性を感じてくれる人が
現れると思います。


プレゼントについて見直し

ビジネス心理学の書籍を読むとかならず
遭遇する法則に「返報性の法則」があります。

同じプレゼント交換的な話になるので、
勝手に贈与論の文脈と重なると思っていた
のですが、どうやら贈与の体系とは異なっていたみたいです。

返報性の法則と贈与について
考えがまとまりきらなかった
ところを一度書いてみます。

まず、返報性の法則ですが、
読んで字の通り、人はプレゼントをもらったら
もらった相手にお返しをしたくなる法則のことです。

ビジネスではこれを応用して、
よく無料でプレゼントを渡して
お返しに商品を買いたくさせる方法がありますね。

では、贈与の方はどうかというと、
プレゼントくれた人に対して
お返しをしたくなるのではなくて、

贈る側、贈られる側とは関係ない
第三者に対して、もらったものを
プレゼントしたくなる、という文脈だそうで、、、

ここでプレゼントの本質考え直そうと思いました。

確かに、プレセントの価値がわかって、
もらった人にお返ししたい場合は
単なる交換になります。

なんならお金をその場で渡せばいいわけで、
貨幣経済ということになります。

でも贈与が前提の交易では、
プレゼントを受け取った人には
そのプレゼントの価値が分からないことが必須で、

受け取った人が価値が分からなくて、
第三者に渡してしまうものだから
そこで第三者にとっては必然的にプレゼント化する。

というループがつくられるのが
贈与だそうで。

ここからわかるのが、
プレゼントって本質的にはありがたいものじゃない
んだってところで、

「わけがわからないけれど自分のところに贈られてきた」
というのがプレゼントがプレゼントとして
成り立つ条件だったことには驚きですね。

でも、現実として、
プレゼントを渡したい時は、単純に
相手が喜ぶと思うものを渡しますし、

別に嬉しいと思う時ありますし、
わけのわからないものにならない場合でも
プレゼントじゃないかと思うのですが、

ここではプレゼント=贈与されるもの
っていう思い込みが私の中にあるからこんがらがる
んだと思いました。

上の理論だと
プレゼントはそもそも贈与じゃないし
プレゼントはそもそも交換ということになる
のだと気づきました。

プレゼントが渡されるのと引き換えに
「相手が喜んでくれる」というお返しがあるので、
交換…ってことになるのかなあと。

本棚と自己ブランディング

本棚には、誰かに自分がこういう人だっていう
のをアピールしやすくする機能があります。

別にそれらの本を読んでいなくても
自室の本棚に置いてあるだけで

その人はそのジャンルの本を読む人、という
イメージを植え付けられます。

ポイントは、自分がその本を読んでいなくても
そこに置いてあるだけでそれが自己ブランディング
に繋がるということです。

中身を知らなくても、アウトプットが完了している
ってところに面白みがあります。

それは本棚の配置とか、順番にその人の
その本に対する「視点」というのが
見えていたりして、

もうその時点である意味コンテンツとして
見られるものになっている場合があります。

ここで疑問になるのは、
じゃあ本を読むことってそもそも
どんな意味があったかということで、

これに対してはやはり、

その本が自分にとってどんな意味があるのかを
明確化するところまでいけたら、
初めて本が意味をもつと言えるでしょう。


単に字面を追うだけではどうしようも
なくって、自分にとってそのコンテンツが
どういう意味をもっているのかを明らかにすることに意味があります。

もちろん、字面を追うだけでも
本を読む訓練になるとか、

そういった目的もあるかと思いますが、
概ねそんな感じです。

なので、その本は自分にとってどんな本だったか
が言えればコンテンツ作成する上で
ネタ切れの心配はいらないんじゃないかと思います。