覚悟は周りから与えられるもの

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自分なりの情報発信を始める時、
かならず覚悟が問われます。

色んな批判に耐えられるか、
あんなイヤ味やこんなイヤ味を言われるんじゃないか、
なんていう不安とか恐怖とかと闘いながら。

どんな辛い事言われてもやり切れるかどうか
自問自答しながら挑戦するか否か考えるかと思います。

また前みたいにしっぽ巻いて逃げてしまうのではないか…

そういう不安が襲ってくるわけですが、
でも前に進まないと先がない、なんて時があります。

そういう時、いつもうだうだ考えて
優柔不断さを見せたりして、
会社の先輩にあーだこーだ行動力がないとか

主体性がないとか積極性がないとか言われるわけです。

その度に、ああ自分はなんて覚悟がないんだろう
とか思ってジメジメ考えるというパターンが
いつものパターンです。

ですが、ここのところはまってる
贈与論のおかげで一つこの覚悟に関する
ヒントのようなものを見つけました。

それはどこまでも周りからの要請があって、
覚悟というのは決まるんだなということです。

覚悟って自分の中から湧いてくるものでは
ないんですね。

あの人の要請に応えられるのは
自分しかいない、そんな思い込みが
人を強くします。

ジャンプ作品なんかを読んだり、
アニメを見たりしていると、
主人公が挑戦したり、戦う覚悟を決したりするときって

たいてい尊敬する先生の言葉だったり、
先に死んでいった人たちの意志っていうのが

主人公の支えになって
ダイナミックな行動につながったりしています。

どこまでも周りからの強い思いとか
そんなのが行動のきっかけになっています。

当たり前と言えば当たり前ですよね。

でも、自分にはそんなズシリとくるような
言葉や、友達や、師匠に逢ったことがないけど

そんな自分には覚悟とか行動力はめばえるんでしょうか、、、

そういう場合に出てくるのが贈与論です。

贈与論では、なんの変哲もない石ころに対して
「これは自分への贈り物だ」と錯覚することで
贈与が始まったとされています。

ここで、「自分への贈り物だ」と錯覚する
きっかけが「ありがたい」「存在可能性が少ない」
という感覚です。

今この場で、このタイミングで、この
石ころに出会っているのは
この私だけだ…

その感覚が個人の行動力に火をつけます。

この感覚というのは信仰ともからんでくるらしいです。

個人という枠を超えたもっと大きな何かを
直観する、というやつですがここでは
これ以上踏み込みません。

要は、自分にしか贈られてない、
自分にしか伝えられない、

だから自分にはこれを全く知らない
人に贈与する必要がある、
なんて思うことで贈与のループが始まるんです。


だから、情報発信したり、他人に
自分の意見を伝える時の覚悟は、

「自分にしかこのことは伝えられない」

という使命感を錯覚させるような
コンテンツによって
勝手に芽生えてくるものなんだと思います。

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