2021年 3月 の投稿一覧

気配り

気配りについて。

気を配るって本当に大変だなと
思います。

けっこう自分勝手、とか
人の目線に立って考えろ、
とか職場でよく注意されます。

注意される最たる理由が
「気を配れないから」
だと思ってます。

この気を配る、配れないの
違いがよく分からなくて
七転八倒してるわけですが、

この頃なんとなく掴めてきました。

職場での気配りについて、

下っ端は下手すると経営者より
気配りが必要です。

うまく、スムーズに仕事を流す
ためにあらゆるものごとに
気を遣い、気を配り、します。

この気配りが必要なことに気づいたとき、
すごく嫌な気分になりました。

だって毎日毎時間毎秒
気を配ってないといけないなんて

どんだけ神経使うんだ、って思って
ものすごく嫌になりました。

でも、そもそもなんでこんなにも
他人のために気を配るのが嫌になったのか
考えてみました。

色んな理由があるとは
思いますが、

ひとつには
「さりげなさ」がこの時点で
なくなっているからではないかな、と。

気配りって、
やっぱり言われてやるんじゃなくて、

なんとなく
必要とされてそうだから
そうしてしまった

という時に味わいをもつ
んじゃないかなと思います。

あたりまえと言えばあたりまえですが、
「こういう気配りができないと
だめ」なんて教わることほど

興がさめることはないかなと。

贈りものと返報性と人間と

人は贈りものをもらったら、
もらった分だけお返ししようとします。

人間に染みついた、
「贈りものをされたらお返ししないと
なんか気持ち悪い」

というこの習性は行動心理学の領域で
よく取り上げられ、「返報性の法則」
といわれています。

この返報性の法則がはたらく
理由ってなんだろう、と考えてみたので、
今からしばしお付き合いください。

贈りもの

まず、贈りもの、ギフトとは何でしょうか。

贈ものはものでなくても
才能や機能的なものなど、
目に見えないものでもいいです。

とにかく自分が「所有」
していいものを
「他者」からもらうこと。

これが贈りものをもらう
ということです。

ここで大事なのは、
常に「他者」から受け取った
ものであるというところです。

自分のものではない
どこか異質なものを
受け取ったということになります。

完全に自分のものとは
言えないものなので人はまた
もらったものを「他者」へ返そうとします。

どこからともなく、
贈られてきて、
どこか異質なものとして捉えてしまったら、

返したくなるのは
うなずけます。


人間と返報性

で、ここで、はたと気づくのは、

そういえば私たち
人間そのものも自分で意図して
生まれてきたというより、

ふいに命が贈られてきた存在…
とも言えるんじゃないかな、と。

なぜ生きて、なぜ死ぬのか。
なぜ人間やってるのか。

圧倒的に分からないことのなかで生きているので、
自分でない「他者」
から存在することを任されている…

そんな感覚が、ふとした拍子に飛来することがあります。

人間そのものも
ギフト的な存在かもしれない
という展開になりましたが、

ここでさらに思うのは、
私たちもまた
存在を贈ってきた「他者」に対して

何かお返ししようとしているのではないか
ということです。

みんな、自分がこれからどうなりたいとか、
理想の未来とか希望する姿を、
自分がどうしたいかを軸にして思い浮かべますが、

そうじゃなくて、
存在を贈ってきた
なにか「他者」めいたものに対して

なにができるか
絶えず問われて、それに応えようとしている
んじゃないかとも思うわけです。

もっぱら、自分がどういう未来に生きて、
どういう目標を実現するか、
自分中心で未来を語りがちですが、

逆に何ができるかを
存在の側から問われているんじゃないか
とも考えれるのです。

以上、ギフトの原理をみてきましたが、
意外と人間の本質的な
ところとつながってましたね。




思考は断片的

思考はつくづく断片的なものだなと
思います。

いったい何がどうなって思考が文章になるのか
ふと疑問に思うことがあります。

今日はこの思考の断片的なところについて
なんとなく考えてみました。

まず、思考が断片的なのは
感情に左右される、
感情の浮き沈みに左右されるところが

あるからなのではないかと
思います。

ふっと浮上してきては
また沈むのは

わたしたちの感情と
結びついているからかもしれません。

思考というと、
論理的で、整合性のとれた、意識の
流れだと思われがちですが、

実は感情とつかずはなれず
の関係なのだと思うときがあります。

現に、人を動かす
マーケティングの本などには

感情で人は動いて、
根拠で人は信用するという

鉄則があるわけですが、

まったくその通りだなと思いました。

感情だけでもだめで、
根拠や理屈だけでも人は動かない。

なので両方刺激する情報が必要となります。

さらに、思考の断片的なところをみていくと、
断片なので脈絡がない
ことになります。

そもそも脈絡とは何か考えてみると、
人に分かりやすく思考を伝えるための
ものであって、

思考をわかりやすく
加工した状態が脈絡のある
思考なのだと思います。

しかし、ここで考えてみたいのは、
脈絡があるというとことは、

まずはじめに
「脈絡がない」状態のものが
なければならないということです。

ようするに、
断片があって、それをつなげることで
初めて脈のある話になってきます。

パズルが完成するためには、
パズルがそもそもピースになっていなければ
パズルと言えないように

思考も断片でないと
脈をつくれないし、
論理立てて語れません。

さらに続けると、

この断片を単なる
無味乾燥な断片でなく、

味わいのある断片に
変えるのは「つぶやき」です。

断片に感情的な要素をのせて
ぽろりと言葉にする「つぶやき」は

実は思考の原型的なところを
突いているのではないかとも思えてきます。

ツイッターが流行る理由は、

こういった人間の思考の本質的なところを
だれもが予感しているからかもしれません。

全能感と無能感

私たちは子どもの頃から全能感に包まれてきました。

全ての子どもがそうではありませんが、
謎の全能感がありました。

それは、消費者として成長
してきたからだと思います。

消費してなんぼ

だから

仕事していきなり無能を知るので

ものすごくしんどいです。

お金出せばいのままになる幻想

なんでもできるという幻想がうまれますよね。


無能を実践で知る前に知りたいですよね。

応援したくなるキャラとは

以前よりキャラクターはつくるものじゃない!
勝手に出来上がってくるものだ、
というようなことを書きました。

それからすると
矛盾した内容のように見えるかもしれません。

ですが、
意図して作ったキャラを超えるという話です。

まず、キャラクターはその場での役割
を与えられています。

この場ではこのようにふるまうことによって
利益を得られる、と考えるからです。

このなかで
キャラがつくられていって、
そして大きな信頼へと繋がっていきます。

ですが、キャラはある意味不完全な方が
ひとを呼びやすのではと思うことがあり、
それについて共有します。

キャラにはそれなりの
物語があります。

その各自の物語をある程度予感させる
ことがリピーター獲得のミソ
なのではと思いました。

常に前を向いているという
実感が欲しいため、


つむいでいきたい物語か
どうか判断する必要があります。

信用のもろさと強さ

信用を培うことが大事であることは
誰だってわかることで、

でも、意識してないといつの間にか
信用失っている、という事態になりかねません。

こういう、「もろさ」が
信用にはあって、

あたりまえのように今までは
培えていた信用が
急に地に落ちるという「もろさ」があります。

蓄積されて、積み重ねられたら
それが崩れる可能性というのは
必ずあります。

これがあるから
信用は大事だということが
叫ばれ一生懸命信用を積み上げます。

でも普段意識していないので
ともすると忘れがちな
この信用ですが、

失うとかなり痛手になる
ということは明白で、

信用があるからこそ
いわゆる「自由」の幅が広がります。

信用を失うとは
その自由度が、社会で生きていく上での
自由がなくなり、

制限が加えられやすくなる
状況に陥ることです。

じゃあ必死になって信用を培い、
信用下げないようにするかというとそうでもなくって、

なんとなく
信用そのものがみえていないから
努力がしにくいという側面があります。

信用あるなしが
わかることはもちろんあります。

お客さんが、
購入できると思っていた商品が
いつも在庫切れで買えないとか

納期を守れなくて
信用なくすとか

色々ありますけど、
でもそれは起こった後に自覚することで
「信用」を意識して

「信用」のために
動くというのは難しいです。

この難しさの原因は


信用そのものが「もろさ」と、
人を自由にさせる「強さ」を併せ持っている
からではないでしょうか。

連絡係の中枢にいるということ

間にはいってビジネスやるのは少していこうがあります。

連絡係は人と人の間に入って、
連絡回す、などなど
が基本業務の流れです。

これ、嫌なんだけど
どう嫌かというと、
気持ち悪さがあって、

今日はこの不快感について話していきます。

職場では目立つ方です。
電話が鳴れば基本的に一番初めにに出るし、
来客のあった時も一番初めに口を開いています。
います。

その間、みんなの注目の的です。
社内連絡で話してる時間も営業さんの次に長いかもしれません。

コミュニケーションの現場をまなざされるというここち悪さを常に感じます。

いつもこの誰かにまなざされている。

何かあったら真っ先に対応しなきゃならないつらさを細かく見ていくと、
まなざされていると同時に突き動かしてくるあの落ち着きのなさ。

常に応答責任が振りかかってくる、
応え続けなければならないあの逃げ場のなさ。

いつ何が襲ってくるか分からない
居心地の悪さがノンストップで襲ってきます。

もう連絡係に未来はない。
とおもわれがちですが、
唯一希望があり、

それは、今いる場所に満足せずに
常に脱却するための
抜け道をさがすことに長け始めるというところでしょうか。

気配りは心配り?

気配りについてです。

これって本当に大変だなと思います。

私はこの頃会社で攻撃されてますが、
その最たる理由が

「気を配れないから」

だと思ってます。

自分でも何故気を配れてないのか、
よく分からなくて
七転八倒してるわけですが、

この頃なんとなく掴めてきました。

気配りの実感

下っ端は下手すると経営者より
気配りや全体を見る目が必要です。

うまく、スムーズに仕事が流れるように
あらゆるものごとに
気を遣い、気を配ります。

初め、
この気配りが必要なことに気づいたとき、
すごく嫌な気分になりました。

だって毎日毎時間毎秒
気を配ってないといけないなんて
なんという労働量だろう、と
ものすごく嫌になりました。

しかも、それがいつ終わるか分からない、
そんな役回りだったから

本当に投げやりになって、
逃げ癖がついてきたと思います。

気配りに心は必要か

でも、この「気配り」ですが、
意外に習慣になれば問題ない
ということに気づきました。

よく、この「気配り」は
心遣いと一緒にされて、

他者に対する思いやりということが
問われるかと思います。

でも、実感としては、
けっこう技術的な、
型にはまったふるまいの方が近いです。


とりたてて人の役に立ちたいとか、
補助してあげなきゃとか、

そういった心の部分はほとんど
意識されてなくて、

どちらかというと、張っていた
「気」の流れが遮られないように
自動的に対処する

という感覚に近いです。

意外にマインドがどうの
ということよりも、

いかに技術的に行動を
修正するかという点
が大事だったりする典型的な例になるのではないか

と思った次第です。

29歳が近づいて思うこと

以前、「何ものか」になるには、
それ以外の「何ものか」になることを
捨てること…といったような

ことを書きましたが、
今日はそこからさらに今思うところを
つらつら書いていきます。

私事ですが、今年の7月で29歳になります。

歳月が経つのははやいもので、
よくある話ですが、まだ気分は
高校生のままです。

でも、もうすぐ30歳になるためか、
実感していることがあります。

それは、どんどん
「何ものであるか」が
決まってきているな、という感覚です。

20歳くらいのときは
なんとか価値ある人間になろうとして
自分は「何ものであるか」を探すのですが、

この歳になると、
「何ものであったか」の振り返り
をするようになるなと。

そして、あれ?「何ものか」に
なってるじゃないか!って
気づきます。

あんなにあこがれ、求めた
「何ものか」に
なってしまっている!?

しかもその「何ものであったか」は
別に自分で探して得たの
ではなくていつの間にか
そうなっていたという感覚です。

やっぱり「何ものか」とは
自分で決めたり、探したり、求めたり、
するものではなくて。

おのずとそうなってくるもの
なんだなと。

もっと言うと、
この「おのずから」は
ほんとうにおのずから

なのであって、
自分で意図して「何ものか」
になった感じはしません。

同時に

他者、あるいは世界、あるいは社会
から問われて問われまくった
果てにこうなった、という感覚もあります。

初めは自分が「何ものか」問うていたのに

他者の問いになって「何ものか」になっていた

というどちらが問いの主体なのか
分からなくなって
ぐるぐるめまいのする感覚です。

「何ものか」を問うている
主体と客体が入れ替わったり、
もとに戻ったりして

ぐるぐる回って
結局両方とも違いがなかった、

ってなるところに「何ものか」が
現れるのかもしれません。

歓待の理論に触れて

歓待の理論に初めて…
ではないですが、
改めて触れてみましたら発見があったので、

感想を書いていきます。

どういうところが
グッときたかというと、

やはりお客はそれまでの
自分たちの世界、常識から抜け出させて
くれる存在で、

そのお客そのものは
自分にとっての敵にもなりうるし、
お客にもなりうる。

でも、どちらに転ぶか
分からないというところが
大事です。

吉と出るか、凶と出るか分からないけれども
お客に対して
歓待するというところが面白いなと思いました。

大学生時代、
この歓待の理論には触れたことが
ありますが、

改めて読んでみると
お客さんに対するイメージは
まったく同じだなと実感しました。

お客は敵になりうるということで、
このあたりが日頃の会社の
業務の中で強烈に痛感するところでした。

お客が敵になる可能性を秘めているのに
招き入れてしまう。

そういう話になりますが、
私の場合はもう入口の時点で

商売おことわりということになります。

すべて接するお客には
丁寧に、ミスなく接するのが
あたりまえとされています。

でも、やっぱりたまには
できない時が合って
その部分をどう教育していくかが問題にも
なりうるということを忘れっちゃだめですね。