未分類

どこにも属さない生き方に憧れています。

文章力を磨こうとしているのも、
本を読んで思考を鍛えているのも、

すべて遊牧民(ノマド)
でいられるための強力なスキルだからです。

悠々自適さを身に付けるために必要だから
今奮闘してるとも言えます。

ですが、この属さない生き方というのはいったい
何なのでしょうか。

属している、属していないという感覚は
どこに由来しているのか、考えてみたら
分からないなと。

最適な場所、最適な環境をいつでも選択できる、

そんな生き方は悠々自適だなと思います。


縛られて自由がない感じがすると、
「属している」感覚があります。

最適なところに行きたいけど、
社会的なしがらみや、生活できない事情が
邪魔してきて辛いというあの感覚です。

自分自身が属しているところと
共にあらなければならないという
義務感が「もう無理」ってなります。

かつてアカデミズムの場(大学)にいたわけですけど、
そこでは自分が何の専門家で誰それ先生のところで
学んでいて、という属性が意外に問われる場面がありまして、

これを自己紹介の中で伝えるのが結構辛かったです。

なぜって、これといって自分の専門について語れることがあるか
というと疑問なので、うしろめたさいっぱいになっていたからです。


いつも逃げたい逃げたい思いながらの
自己紹介タイムになるのがオチでした。

正直こういう「特に何も言えない」
という姿勢はよくないですし、なんとか
はっきり軸を持つべきだったと後悔してますが、

将来的にずっとその認識持たれる中で
で自己紹介しつづけるのは辛いなと思ってます。

ただ、辛い事ばかりでなく、所属している状態では
何かをするときに役に立ちます。

どこの誰かが分かっていると人は信頼するので、
自己紹介をして、オファーを出したら
自分がやってほしいことを行ってくれるようになります。

その意味で所属を明らかにすることは
社会的に重要で、
むしろ勝手に決まってくるものです。

結局どこに行きたいか

どのような内容の文章を書きたいか

良く迷います。

ですが、すべてにおいて言えるのは

どこか新しくて価値があって、
再現性が高いものです。

ネタが生まれるとき

今日は特にネタがありません。

でも、つくづくネタが泉のように湧き出る
ときと、そうでないときの違いって何だろうと
疑問に思います。

仕事に忙しいときは
出ないよなと思います。

今日なんかは特に、細かくて
大変です。

お金を稼ぐこと

考えてみますと、

お金を稼ぐことが悪いと思うのではなくて
お金を稼いでその先どうするかがしょうもないと

もとめられて、いるならいいですけど。

歓待について再び

うまくいくかどうか知りませんが、
また歓待について考えたので書きます。

まず、なぜ敵かもしれない、
自分を壊しに来るかもしれない
相手を迎え入れる気になるのか

まったくもってナゾであります。

いつも同じ人と同じような
会話をすることが私の理想ですが、
ビジネスする上ではやっぱりそうもいかなくて、

ぐいっと輪の中に入り込む
頑張りも時には必要です。

特に書くことないけど
レポート書かなきゃならなかったり、

お客さんから依頼きている
の無視できなかったり、

えいやと入ってしまえばいいとは
言われますが、入り方わかんないし、

もうこれ以上文章が出てこない
ということになって、

本当にもうコミュ障は生きづらいです。

だって自分が壊されるかもしれないんですよ…

それなのに凄い人は相手と直接話したり、
そうでなくても長文書いてメッセージ性高い
コンテンツつくったり。

なかなかやっぱりできるものではないかと
思いながら、

どうして他者を迎え入れられるのか。

結果、迎え入れないといっても
一旦は相手の話を聞いたり、
自分がオープンになることあると思います。

で、考えてみましたけど、やっぱり
自信がないけど自信がある状態にいる
からそれができるんだろうなと。

覚悟が決まるということは、
わからなさがわかる、
何が出てくるかわからないけれど

それがわかる自信からくるのではないかと
思いました。

と、こう考えても会いたくない人に遭遇する
恐怖はつきまといますけどね。

とにかくたまに書くきにならなくなる
ときはこういうビビりになっている
時で、辛いときであることご了承ください。

リアルについてちょっと考察

ものごとがリアルだとか、
現実味を帯びてるな、って感じるとき。

それはいったいどういう事態なのか考えてみたいと思います。

リアルな身体感覚と人間味

これはどう考えても「身体感覚」がどれだけ
ともなっているかによって
「現実味がある」「現実味がない」が決まってますよね。

実際の身体感覚もそうですが、
胸がドキドキする、とか
冷や汗が出る、とか

そういうことってあるかと思いますが、
実際このドキドキとかヒヤッと感って
現実味ありますよね。

しかも文章術学んでいる人は
分かると思いますが、
こういう身体的な表現を伝えることで文章が「リアル」になります。

さらに、「身を入れる」って言葉もあるように
自分の身体的な感覚を投じることによって
何かに集中して取り組めるようになったりします。

なので、「現実味」のあること
と生々しい身体感覚というのは重なるものです。

ところで、
これから世の中自働化が進んで
どんどん機械におまかせしていくとなると、

絶対にこの「現実味」を求める声が
出てくると思います。というか
もう出てますよね、たぶん。

機械とか自働化とかAIとか言うときの
あの冷たい感覚とは反対のアッツアツの義理人情みたいな
ものが必ず浮き上がってくるでしょう。

人間味こそが物語を生み、感動を生み、
前に進む力を生むので
やはり人間味を帯びたリアルさが大事だという主張です。

この義理人情を強調するときに同時に
出てくるのが、人間味ある方が「正義」
だという主張かなと。

ただ、ここでは「正義」や「正しさ」については
あまり深く語れないのでまたの機会にしておきます(^_^;)

ここで、「人間味」という言葉が出てきましたが、
これも身体感覚とリアルについて考えていくと
勝手に湧いてくるワードですね。

現実味と人間味があいまって
初めて生き生きとした感覚がうまれます。

私が勤めております会社の営業マンが、

人とのナマのつながりを大事にしていきたい…

なんてことを言ってますが、

これは直にお客さんに会って、
会話が生々しく生成してくるあの躍動感を思っての
セリフですね。

確かにこのような生(ナマ)のつながりは
機械化が進む今では注目されますし、
アナログなお付き合いが今後はもっと重視されると思います。

でも、でもですよ…

「機械的」、なはずなのにリアルな人間味を感じるもの
って実はあるんじゃないかとこのごろ思うんです。

「動き」を遠目に見てみよう

これは特にビジネスとか、経済、社会の変動を学ぶと、
なんとなく感じることなのですが、

機械的につくられたはずの仕組みが
動いている、というそのことそのものが
なんだか生き生きとしているように感じられます。

機械や、自動化した仕組みを総体的に、
見てみるとわかるのですが、

上がったり下がったり、うねうねと
変動しているところが
「何か生きているぞ」という感覚を生みます。

何でこんな風にみえるのか考えてみました。

お金の流れとか物流とか自働化って、
結局人間が必ず関わっていること
だから、とも言えますが

「動き」そのものに「人間味」を見るから
じゃないかと思います。

「動く」ということ自体が
「人間味」というところと密接にかかわっていて、

逆に、人間味あることとかリアルさって
ものすごく単純なところまで分解すると、
単なる「動き」なのかもなーと思いました。

そこまで分解してしまうと元も子もないですが、


結局この「動き」に魅せられて
人は行動するので「動き」をうまく使えば
ビジネス上手くいくんじゃないですかね。

「動き」の一つ一つをもう一度見てみると、
それぞれの仕組みがうまいこと連動して
次から次の工程へとパスを回しています。

このパス回しの中で、参加している人にどれだけ
身を入れさせるかがポイントになってくるんだと思います。

たとえ機械的な仕組みだとしても、
少しだけ遠目にみてみることで

リアルな動きとして見えてきて、新たな
発見があるかもしれません。

「下」からの眺め

成長をまた問うてみたいと思います。

成長している先輩の背中を見ています。
いつも従順に上司の言うことを聞いて、
従順に仕事してる。

そんな先輩と比べられて将来性を問われてしまい、
辛いと感じる時があります。

こんな時、成長とは何かすごく考えます。

会社にとっての「成長」と私の思う「成長」とが合致して
いないことがつっかえの原因だと思います。

会社にとっての「成長」は、いかにうまく
労働してもらえるか、というところです。

単なるルーティンワークではなく、自分の頭をつかって
新しいことや、ちょっとややこしいことでも責任もって
対処できることを希望します。。

それに対して私は仕事でやってることはややこしすぎて
分からないし、分かってもここ以外で使えない知識は
「成長」に繋がらないとか考えてます。

でも、会社の方針だと資産性の低いこと、なおかつやればやるほど
どつぼにはまっていくような
そんな気がしています。

現にできるようになる仕事が増えるごとに、

またこのお客さんか、、、

となることがほとんどで、相手はどれだけ私が
頑張ったかがわからないためそうなります。

ねむい時どうしてます?

ねむたくてしょうがないという
時、どんな感じしますか?

すべてをなげうって、安心して眠りたい
という欲求があります。

こう書くと、必要最低限しかやらないように見えますね。

でも眠いときは眠い

労働・労働・労働

先日職場で、暇な時と忙しい時と
どっちがやりがい感じる?
って社長に聞かれました。

「忙しい時の方が充実してます!どんどん仕事を振ってください!」

って答えて欲しかったのだろうと思いますが、
敢えてそのようには言わず。

「時と場合によりますー」

と素直に言いました。

もう、ほんとしょうがないんですけど、
社員は一生懸命労働することが無条件に素晴らしい
という固定観念が見えています。

当たり前ですが、仕事では密度の濃い時間を
いかに作るかが問題なわけですが、

それが日頃の労働を増やすということで、
本当に嫌だなーってなりました。

私の中で根深い感情がこの時芽生えて、
やっぱり下僕になりきれない辛さが
ありました。

忙しいのがとにかく嫌で、

どこそこに電話してどこそこにファックスして
誰それのためにコピーを取って
の毎日とおさらばしたい。

でも、ほんとに何でこんなに
嫌がるのか自分でも不思議で、
とにかく根深いです。

とにかく事務仕事がめんどくさい。

もっと因数分解すれば見えてくる
事もあるのかもしれませんが、

苦手すぎて考えることもできないです。

こんなときってあると思いますが、
理性というより感情ベースになっていて
どうしても「労働=悪」の方向にしか

もっていけなくて、
思考が働かないですが、ここであえて
「労働=すばらしい」を考えてみるのが

ひとつ壁を乗り越えるための道かもしれません。

考え方のコツ

深くものごとを考えるときの
コツを教えます。

それは「前提」を問うということです。

例えば今私の中でしきりに響いている
「成長」という言葉ですが、

これの前提を問います。

問い方は5W1Hに沿って
考えていきます。

・なぜ
・何を
・誰が
・どのように
・どこで
・いつ

そもそもなぜ「成長」を問うのか
そもそも何を「成長」とするのか
そもそも誰の「成長」を具体的にイメージしてるのか
そもそもどんな場面で「成長」していると思われるのか
そもそもいつごろ「成長」の概念を追求し始めたのだろう。
そもそもどうしたら成長したと言えるのか