未分類

ニッチ

ニッチな分野だけれど、
潜在的なニーズのあるキーワード
でブログを設定して、

なおかつ毎日少しでもいいから
コンテンツ投稿するのを3ヵ月間続けたら、

その市場で検索上位に出てきやすい
と言います。

継続して投稿する難しさ
はありますが、

ニッチジャンルを見つけることって割と
簡単なような気がします。

地域限定の流行り言葉とか

子どもの頃に読んで好きだったけど
あまりみんな読んでなかったような本とか

ちょっとブームが去ってから自分がハマった
アニメや漫画とかをレビューしたりすると
紹介するのも楽しいかなと。

なので、あとは継続して動画なり、記事なりを
投稿できる継続力があるかないかが問題で、

それを習慣化してしまえば
割と集客は簡単かもしれません。

で、

ここで問題になる「潜在的」なニーズ
の見つけ方は先に紹介しましたが、
それらを俯瞰してみると、

意外に時間の蓄積にようなものが
あるのかなあと思いました。

地域で流行ってことはあるていど
広まるのに時間がかかってるはずですし、

子どものころ好きで、今はあまり見ない、聞かない
本は時間積み重なってます。

この時間の蓄積にポイントあてて探すと
みつかる…カモ。

物語を編む

コピーライティングやマーケティングを
学ぶと、テクニックとしてよく言われるのが、

物語の威力を利用しよう、
というものです。

この物語について今日は少し。

物語ることっていつも、
形式としては過去を語り直す、
っていう構成になっています。

それはフィクションの物語を
物語るときも、いつも「すでにそこにある」
話を再構成することが物語化です。

なので、物語は編まれるものであって、
出来事をそのまま描写するわけではありません。

当たり前ですが、
商品ができるまでのいきさつを
紹介してファンになってもらおう、

ということをする場合、
単に製造過程を描写するだけではなくて、
感情豊かに語ってみたり、

なんらかの加工がなされます。

なので、
過去がそのままではなくて再度構成される
ってところにどこまでも可能性を感じます。

いじめられてた経験とか
辛かったこととかが武勇伝と化します。


物語化することって
そんなこともできるんだなあ、と不思議に思うところです。

潜在的ニーズについて

潜在的ニーズについて少し。

普段意識していないけれど、
明るみになると、
そこにあったことに気付く価値について

潜在的ニーズを考える上では
考えてしまうのですが、

これに対して出てくるのは、


そもそも意識していなかったら
意識していないってことで、

既にそこにあるのではなくて、
あるかのように思わされる

つまり、潜在的にそこにあったと
思わせる仕掛があるだけであって、
常に深いところで了解されていたわけではないんじゃないか

っていう考え方もあります。

単に隠されていた、潜在的にあった、
とみなされるだけであって、
意識に登ってないってことは

そもそもないってことなんじゃないかと。

よくある議論と言えばよくある議論
なんだと思います。

じゃあ、具体的にビジネスで
潜在的なニーズを探る、ってときはどうなるのでしょうか。

無ければないで困らないけど、
言われて初めて今まで不便だったことに気付いたり、

ここでは今まで何も疑問に思わなかったこと
を疑問に思ったり、不便を解決する方法が
わかると手をのばしてしまう、なんてことが起こります。

このテクニック的ア部分を知るだけでも
影響力から逃れることができるかもしれません。

インプットが足りない?

インプットばかりしてないで
アウトプットもしなきゃ!とか

行動しないと意味がない!ということは
よく聞きます。そして耳が痛いです。

確かにその通りです。

でも、ぶっちゃけここで前提になってる
インプットをある程度している状態って本当に
できているだろうか?

と、考えると意外にできていないんじゃないかと
思います。

インプットが完了すると
自ずから行動してしまうもの…

そんなふうにいつも思うのですが、

なかなかこういう話は聞かないです。

人間インプットもアウトプットも
いつもしているものです。

この人間である以上、

五感から体験したことによって
インプットされ、

それに基づいて行動します。

要は普段のインプットと
アウトプットの質が問われているわけで、

上手い具合にアウトプットも促されるようなインプット、

あるいは

上手い具合にインプットしたくなるような
アウトプット体験をすることによって、
質は高まっていきます。

では、
ついインプット・アウトプットしたくなるような
ものって何だろう?と考えると

ギャップを利用したものに触れるとき、
結構影響されるなと思います。

その振れ幅に応じて
感情が高ぶったりして

行動促されることが割とありますよね。

じゃあ、この振れ幅はどうやって作ればいいのか
というと、

単純に真反対のもの・ことを並べて
共通点やその違いを抽象化してみつける
というのが手っ取り早いかと思います。

価値を提供すること

以前にも書きましたが、
今まで以上に人はどんなものに
価値を見出すのか

すごく考えるようになりました。

考えてもこれって実験して
はじめて身につくものだから、と書くことを
ためらっていましたが、

どうにも思索がとまらなくなってきたので
書きます(‘ω’)ノ

人は価値があると認めたものには
お金と時間を投資します。

価値が高いと思われるものほど
お金と時間を投入する量が多くなります。

なので単純に価値をたかめられる人ほど
お金も時間も富むことになります。

では、この価値って何だろうと考えた時、

実は「時間」が結構おおきな役割になってるな
と思いました。

極論ですが、この世の中のモノはほとんどすべて
お金がなくても手に入ります。

食べ物だって、ものすっごーーーーく
長い時間かけて自給自足の生活に
こぎつけることができればほとんど

タダで食べ物が手に入る状態つくれますし、

何か物をつくりたいってなっても、
ありとあらゆるタダの材料

を色んなところを渡り歩いて調達して、
つくり上げることが可能です。


この膨大な時間を使って無料で、
しかも自分一人で
得たいものを作ったり、得るよりも

誰かがすでに作ったものや
体験を、お金で買う方がコスパがいいです。

そういう「手っ取り早くすませたい」
という欲求が根っこに潜んでいるからこそ
お金が使われます。

なので、価値があると認められるには、

体験価値とか再現性よりも先に
時間をいかに短縮してあげられるか、

に焦点をあてたら大きな価値を用意
できるのではないでしょうか。

お金と自由

お金を払って何かを得る場合、
痛みがともないます。

来月あの新刊が発売されるけど、
今目の前にある買いたい漫画買ったら
来月買えない…とか葛藤しますよね。

そして決まって、
「余るほどお金があったら自由に
買いたいものを買いたいときに買えるのになあ。」

と思い悩みます。

お金があれば自由になれると思う理由はここにあり、
どこを選択するかで迷わなくなると思いまs。

売り方を考える

売り方を変えるだけで大ヒット

そんな話がてんこ盛りなマーケティングの本を
読み進めています。

人間の心理の分かりやすさにも
辟易するものがありますが、

本当にうまく刺さるコツさえわかれば
売れてしまうという
なんとも悲しい人間のパターン化された習性をみることができます。

届けるということを
深く考えさせられるわけですが、

つくづく分からないなと思います。

ただ、思ったのは、
届ける前に差し出し方を考えているなと。

届いてしまったら自己満足で、
そこで終わりですが、

差し出されたものは強引さがないし、
相手の前にきちんんと差し出されます。

なので、届けると差し出し

どちらを大切にしたいかと言われると
差出すような
オファーがいいなと思いました。

メディア(媒体)に応じるということ

集客装置として
動画サイト、ツイッター、ブログ、インスタ等
への投稿を考えているわけですが、

それぞれで投稿するとしたらどんなコンテンツ
載せるか考えてみたのですが、

なんとなくそれぞれ
情報発信のテーマを少しだけずらしたくなりました。

皆さんも変えたくなった経験ありませんか?

私はまだこのブログからしか投稿した経験が
ありませんが、これからそれらのプラットフォーム
に手を出そうと考えると、

軸は哲学・思想系になると思いますが、
投稿するコンテンツちょっと
変えたい…

そんなことを思いました。

例えば、ツイッターなんかは
短い呟きなわけなので、

詩をつくってみたら面白いんじゃないかなんて
思ったり。

詩を書くとなると必然的に
需要のある恋愛とそれにまつわるコンテンツ発信の仕方
とかになりそうな予感がしますが…

インスタなら自分の好きな色(青)の
ものばっかり載せてみたいな、とか。

文化や雰囲気についてしょっちゅう考える
のでデザインでコンテンツつくるのは
どういうことか考えさせる投稿してみたいと思ったり。

動画はまだいまいちピンときてません。

こうした思惑が出てきたことから、
やっぱり「媒体」に影響されて
コンテンツが作られる場合があるなと思いました。


「媒体」となるプラットフォームはことさらに
意識することはないけれども、
それぞれの特徴を生かそうとするせいか、

どうも無視できないなと感じています。

現に私が参考にしている情報発信のプロも
それぞれですこしずらして使い分けしているみたいで、

メインのビジネス教育系というところは
変わらないのですが、

一番前にもってきてる
コンテンツがそれぞれ違う印象です。

各媒体とのうまい付き合い方
を模索していきたいと思います。

深みの研究

話しが深い、浅いって簡単に言いますが、
この違いって実はよく分からないので
考察をば。

哲学は深いです。
間違いなく深くて、だからこそ
人にドヤ顔したりできます。

大学で哲学を専攻していましたが、
いかに周りに哲学的な思索でドヤ顔するか
みんな一生懸命になります。

でもそれが「深み」を帯びる理由って考えたことありますか?

哲学は単にそれまで固定的だった考え方や
型を破壊するような問いが生成され、

その問いがさらにまた壊されて問われるわけですが、
単に新しい見方を提示しているだけなのに
深みというものが伴っていくのが不思議でした。

本質的な、原理みたいなものに近づけば
近づくほど深いと言われます。

こう考えると、

逆に普段は深くないんだー
と思うのですが、それはさておき、

では原理的とか本質とか言われることがらは
なぜ深いのか。

それは誰にとっても当てはまる
普遍的なところがあるから、という理由が
挙げられるかと思いますが、

でも誰にとっても当てはまるから
深いというわけでもないです。

やっぱり普段意識しているようで意識していない、

そんな「潜在的」な部分まで深化している
感じがするから深みなんだと思います。

贈り物の条件

贈り物(プレゼント)についてです。

そういえばプレゼントがプレゼントたる
条件は何かと考えると

贈られるはずではなかったものが
与えられるという時に

贈られれたものがプレゼントになります。

贈る側は準備していて、
贈られる側がふいにプレゼントをもらう
という、サプライズ性とセットになってます。

「プレゼントが3日後に届くよ」と
あらかじめ伝えられていても、
それを伝えられたときは突然なので、

おもいっきりサプライズではないけれど
サプライズ。

さらに、お金がいらいないというのも
一つの特徴です。

確かにお金をかけるときは自分の
意志でこれをもらう!と決めるので、
お金発生したらプレゼントじゃなくなります。

このようにみていくと、
どこまでもプレゼント受け取る側は受動的です。

この受ける一方、というのがつらくなる
ときがやっぱりあるのですが、
それはまたもう少し考えてから書きます。