何でこんなつまらない仕事を
しなきゃならないんだろう?
何で給料上がらないんだろう
あの先輩よりも結果出してるのに…
なんてことを思っている若者が多いのだとか
私もその若者のひとりなんですけど(-_-;)
これは例えばトイレ掃除を無条件に毎日やらされている
ことだったり、同じ業務内容でも給料が違っていること
知ったりした場合に湧いてきます。
何でこんなつまらない仕事を
しなきゃならないんだろう?
何で給料上がらないんだろう
あの先輩よりも結果出してるのに…
なんてことを思っている若者が多いのだとか
私もその若者のひとりなんですけど(-_-;)
これは例えばトイレ掃除を無条件に毎日やらされている
ことだったり、同じ業務内容でも給料が違っていること
知ったりした場合に湧いてきます。
今日、職場でミスは誰も自分が責任と思っていない
ところに発生しやすいという話になりました。
確かにそうで、
自分に必ず責任が発生するとわかる
ところはちゃんとするけど、
他人との境界線にある業務とか
あいまいな部分は必ず手付かずの
ところに置き去りにされ、
ある日それが大きなミスとなって
浮上してくる。
そんなことがよく起こるかと思いますが、
今日はこのトラブルは必ず
だれも責任とろうとしないところに生まれることについて
責任論とかといっしょに見ていけたらと思います。
まず、
自己決定して、自己完結、自己がすべてと思っている
人はかならず自分の起こしたトラブルに対しては
対処するけれど、
他人がやらかしたトラブルは自分には関係ないから
他人は他人で解決してというのが好まれます。
そして、この自己完結主義的な言動は
周りの信頼をなくし、
結果的には捨て去られます。
自分一人でやりたい、自分一人で
決めたい。
このような欲求があるかとは思いますが、
これを一度押さえてみて、
等価交換が機能していないところで
完全体でいられるかたも勉強してみてください。
私の文章はよくわからないところで
終わることが多いです。
ブログでいい文章書けるようになるために、
とあるライティング講座で文章を
添削してもらいました。
その添削した結果として
「内容はいいけれど最後が尻切れトンボになってます」
ということをよく言われ、
指摘は受けるけれどどうやって
直せばいいのかよくわからない…
ということがよくありました。
それ以来ずっと悩み、考えてきたつもりですが、
ずっと浮かんでくるのは
これも円環運動なんだな、
ということです。
なにかを完結させるとは、
円を描くということかと。
それもしっぽと頭がぴったりくっつく
のではなくスタートよりもゴールが少し
上に重なっている円です。
文章の最後はやっぱり
「まとめ」なので、
まとめるということはスタートにもどりつつ
スタートよりも一段あがったところから
スタートを見返すということです。
こう考えると、
じゃあ途上の過程は曲線を
描くことになるのか?
となってよくわからなくなりますが、
これははじめから円の大きさを想定
することと関連します。
とある文筆家のライティングに関する
記述を読むと、
始めと最後だけパッと
浮かんできて、書き始められる~
なんてことがあるらしく、
やっぱりいい終わり方ができるのは
あくまでスタートとゴールがなんとなく
分かっているからなのかなと
思います。
ただ、間違ってはいけないのは
なんとなく最初と最後は見えているけれど
過程は案外変わったりするもの
なんだということです。
円の大きさや小ささが
変わるような感じで随時変わるもの
なのかもしれません。
よく分かりませんけど…
問題がどこにあって、
スムーズに仕事ができなくなっているのか。
皆はできるのになぜ私ができないのかが
頻繁に問われます。
今日も仕事はグダグダで、
そんなんで大丈夫かと声をかけられるくらいでした。
グダグダであることが一般的
であれば何も声かけられないだろうと
思うけれどそういうのは助けてもらえなさ
すぎるのかもしれない。
問いを問うことの
奥深さとか、面白さについては
書いてきたような気がしますので、
今日は答えをひとまず用意すること
について考えます。
答えはいつも「そうとも言えるし
そうとも言えない」、そんなものです。
かならずその逆なり、偽なり、
否定される要素というのが対になって
存在します。
でも、ひとまずあることが
「答え」として仮定して、
前に進んでみるということが
どうしても必要な場面が多々あります。
そういうときはどうするか
前回のつづきです。
前回は共同で働くことがずっと
辛いものだったという話でした。
指摘されたり、せっつかれたり、
大変なことしかないから嫌だと。
でも、
共同でなにかをすることは
強い個人同士で集まってやると
すごい大きなちからになるという
ことを学びました。ありきたりな話ですが…
自分のできることはこれで、
これはできない、ということが
ハッキリわかって、
それを一緒に働いている人に伝えられることで
強い集団ができると。
ですが、今まで苦しんできたのは
「自分のできること」がないから苦しんで
来たので、結局何も変わらないと言えば
そうなんですが、
でも、できることって、
実はあったよなと分かるようになったので
それが今回の気付きの肝かもしれません。
よく先輩に、私には「安定してできる仕事がない」
って言われてきました。
安心して任せられることがないから困る、と。
でも、それは逆に安心できないものを
安心、安定していると勘違いしていることが
問題なのであって、
別に私の不安定さ=何もできない
ではないなと。
安定していることのみが「できること」
ではないということを私も含めて皆が
勘違いしていたところに問題があったのだと
そう考えると「できること」というと
たまに間違えるけど「伝票作成」はできる。
たまに声のトーンおかしいけど概ね「電話対応」は
できる
たまに報告しわすれるけど「報連相」はできる
できることはあるわけだから
そこで落ち込む必要はないなと思うにいたりました。
問題なのは周りの他の人に比べて
失敗する頻度が多いということです。
でも、ここで同時に、
「元来仕事ってミスがつきものなんだ
ということを皆に自覚させる」
ということを教える仕事が私には
「できる」という話も成り立つなぁ~
と、そんなことも思ったりするようになりました。
で、
そんな感じで自分のできることは
伝え方次第でどうにでもなるし、
活かしていく方法は見つかるということです。
「何ができて何ができない」を
相手の要望に沿って伝えることができる
能力が必要とされます。
そして、この能力が身に付いてしまえば
共同で仕事すること、相手と協力して
何かを進めることは
逆にとてもやりやすくなるし、
刺激的でいきいきとしてくるんじゃないか、
そんな予感がしてきました。
単に「何ができて何ができない」かを
伝えるだけと言えばそれだけなので、
やることが分かった以上、
スッと気持ちが楽になるわけです。
これが今まで辛い辛いと思っていた
共同仕事に対する考え方の変遷過程です。
ほんとチームワーク、みんなで一緒に、
共同で、っていうのが本当に嫌いです。
ですが、少しだけ、
ほんの少しだけ共同で何かをすることの
わくわく感を今日の読書で味わえたので共有します。
まず、嫌だったこととして、
誰かと仕事をすると決まって不都合が生じる
こと、不都合が明るみになること。
誰だって一人なんて状態はあり得ないので
そもそもどんな人でも誰かと仕事や行動は共に行う
ものだとは思いますが、
とにかく話しかけられて応答責任
の必要な内容だとわかると無視したり、
睨み返したりしたくなります。
「もうだれも私に話しかけないで!」
という心持になって
次第になにもしたくなくなっていく…
誰かと共同でなにかをするとはそういうことを
意味していました。
考えてみると、
コミュニケーション能力って数字で測れない
能力だなと。
つい忘れがちですが、
伝え方の上手い人とそうでない人確かに
いますが、それらの違いは数値化できません。
コミュ力が高い、低いとか
コミュ力高いと褒められるとは
つい数値化したくなる文脈で語られることが多いです。
コミュニケーションとは、この
数値化できないわけわからなさと向き合うことです。
今日職場で社長と面談しました。
困ったことはないかと聞かれましたが、
相変わらず「特に何もないです!」と
応えました。
不満はありすぎて言えないくらいあるんで、
もう大分前からこの姿勢なんですけど
というか言ったところで変わるのか?
ってのもあるしいつも可もなく不可もなくの
応えを言っています。
そのうちパンクするのかな?
って思ったりもしますが、
でもつくづく何でこんなに世界を呪っている
んだろうと思います。
もらってるもの、得ているものも
多いはずなのになんで全部ダメなんて
否定的なのか
興味はあります。
あいさつするにも、
書類をコピーするのも、
電話が鳴って元気よく応えるのも
すべてが嫌で、でも不思議と周りは
そんな人一人もいないみたいで
なんか私だけがこんな否定的かなと思います。
会社のドアノブでさえ嫌気がさすレベルなんですが、
結構世の中いい人が多いのか?
それとも皆そんなに気にしてないのか
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