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アニメ選びで唯一無二を求める

アニメを見るのは好きですが、
その時々で話題になっているアニメはあまり見ません。

どうにもはまってしまった作品は
旬なものでも見続けますが、

今流行りだからという理由では
見るアニメを決めません。

むしろ意図的に、
発表されてから数年経ったものを見ます。

この習性は中学生のころから
ずっと引きずっていて、


何でこんなアニメの選び方してるのか
いよいよ考えてみたくなってきましたので
考えてみます。

まず第一に考えられる理由は、
皆が見ていない、忘れ去ったものの
良さを掘り起こしたい、という欲求からきているというもの。

流行りものを鑑賞するときは
どうしても「みんなこれをどう見てるんだろう」
「どんな感想もつんだろう」とかとか

他の人のこと考えてしまって、
焦りが湧いてくるからです。

なぜ焦るのかというと、
自分がみんなと同じことしてしまっていて、
まったくつまらない有象無象の衆になっている
感じがするからです。

なんという厨二的な発想

でも事実それが根底にあるから仕方がない、、、です。

もうひとつ大きな理由があります。

それは、「自力でみつけた」という感覚が
ほしいからです。

恋愛もそうですが、「コレおすすめだから」
なんて言われたものを好きにはなれないように、

自力でみつけたと思えるものでないと
自分のコンテンツとして見られないと
思っている節があります。

街中で騒がれているものを
手に取るのはなんだか自力で
見つけた感覚がしなくて、

他人のものを持つような感覚になるから
今流行りのものには手を出さないのかもしれません。

あとは、自分一人に向けて、
贈られたメッセージ的なものと
の偶発的な遭遇というのに憧れているからか、なと。

ここらへんになると贈与論になりますね。

こんな感じで観るもの選んでます。


ビジネスに応用するためのヒント…
になればいいなぁ~と思って書いてみました。

またミスった

今日、職場で一年前くらいにやったこと
とまったくおんなじミスをしました。

何でまた…

方々にご迷惑おかけしましたが、
つくづく周りの人比べると
ミスの数が多いなあと感じます。

でもって、いつも同様少し卑屈になって
どうせ私なんてすぐにミスってしまう
使えないゴミだから…

とマイナスな方向に自分の評価をもっていきます。

ですが、
ここにきてミスることのメリットみないなのを
考え付いたので、

ミスの多い人は自分のミスを棚に上げたり、
言い訳したりするのに便利です(^_^;)

じょうだんはさておき、
ミスることのメリットと言っても
最終的にはマイナスに転じてしまうような方法ですが、

これで少しだけ元気でるかもしれません。


わくわくの条件

この頃元気が出ません。

あまり理想的、希望に沿った未来が
想像できない展開が現実起きてるから
というのもありますが、

あの頃のあのわくわく感を
忘れてしまいました。

自分でコントロールしてビジネスに必要なスキルを
いち早く身に付けるぞ!なんて思ってましたが
なぜかやる気ナッシング

眠くて仕事ができない

眠い

眠い

眠い

とにかくに眠くて仕事ができない

そんなときあると思いますけど、

かといって目覚ますための努力を
するわけでもなく、怠っている

問いをめぐって2

昨日のは少し
込み入った話だったかもしれません。

なので、今日は
運動についてメインで考えていきます。

この運動がすごく色んなところ
に効くのですが、
今回はとりわけ問いをめぐっての

考察です。

問いをめぐって

問いの力、というものがいよいよ
私の中で意味をもってきました。

わりと世間的にも「答え」より「問い」が
大事、という流れがきていて、
今まで以上に「問い」が問われるようになってきたなと。

でも、そもそもなぜ「問い」の考察が
求められるのか、
そこにどのような意味を見出しているのか、

考えていきたいと思います。

流れとしては、まず「問い」のなせるわざについて
ざっくりとおさらいしていきます。

そのあと、その「問い」の性質から
導き出されるさらなる問いを提示して
みます。

ではまずはじめに、「問い」のなせるわざというか、
性質というか、問いの生み出す効用についてです。

これはもちろんそれまで考えてきた
固定的な概念を打ち壊すはたらきがあって、
打ち壊されてそこから新しいものが生まれることです。


発想の転換をうながされるところが
ひとつ「問い」のもつはたらきと言えるでしょう。

また、別の性質になりますが、

問いは答えと対になって、
便宜的に二項対立しているように見えていますが、
個人的な実感として、問いも答えもセットになってる感じがあります。

もっと言うと、答えと問いとがセットになって
運動しているのが「問い」かな、という
感じがしています。

「問い」は常に答えを壊すはたらき
をもち、その意味で常に答えと
隣り合わせですし、

問われるということは
そもそも答えが予感されている
ことなので、やはりセットなのだと思います。


めざしている文体

どんな文体を目指しているか
書いていこうと思います。

でも、自分の文体なんて
自然に決まるものであって、宣言するものじゃない
と考えています。

じゃあなんでここで言うのかというと、

宣言することで、結果的に目指していたところ
とは違っていても、何かしら形をもって

今までよりは力のあるものが書けるんじゃないかと
思うからです。

具体的にどんな文体にしたいか、
どんなスタイルの文章にしたいかというと

読む人の「問い」の生成過程に伴奏できる
ような文章です。

なんで読む人の「問い」にアプローチするかは、
単純にそれに寄り添うことで、
問い求めのおもしろさをもっと知ってもらいたいからです。

なので、ちょっと前に進みやすくなる
ように、ほんのちょっとだけ、

とんっ

と背中をそれとなく叩くような

そんな感じのことを文章通してできたらなあ、と。

あとは、知らないことを知ってるふりしないで
知らないことは知らないということで

いつでも素直に反省しやすい文体に
していけたらいいなとも思うからです。

書いていくうちに知らないこと、
あれも書きたいけれどもどうにも
理論が完成していないときってありますよね。

そういう、
言及したいけれどもやめとこか

というようなことでも「問い」で
締めておけばある程度余韻が残って
当たらずも遠からずでそれに触れられます。


製造業にみらいはない?

製造業は機械の仕事だから
そのうち無くなるとか言う
文章を読みました。

いや、まさにこんなことを会社で
思ってしまうんです。

なくなりはしないだろうけど、

今後は大変になっていくだろうなと思います。

高単価で情報を売るということ

高単価で情報を売るビジネスモデルが
詐欺だなんだと色々言われる
のですが、これについて

やはり複雑な思いが湧いてくるので
そのあたりをちょっくら書こうと思います。

整理するつもりで書いていくので
いつもながら散らかったりしますが、
ご了承ください。

高単価っていうところが
いかんのかなあ

確かにこの業界には詐欺があって
高額な金額支払ったのに
何ももらえないとかは

ありますが、そうでないものもあります。

そうでないものに感銘を受けてしまった
経験があるので、それを押したい気持ちがあります。

でも一方で詐欺もあるので、
なんともやりずらいです。

でも、結局自分で納得できるかどうか
がすべてのカギなのかなと。

それを高単価で売っても身体感覚的に
違和感がないのであればそれでいいのかなと。

等価交換で考えると苦しくなる2

昨日のつづきです。

等価交換で考えるとは、
すなわち辛い労働に対してすぐに対価が
自分に与えられるだろうと思うことです。

でも、労働がそもそも原理的に
等価交換ではないので
戻ってくるものはすぐ戻ってくるわけじゃなくて、

もっと先々に忘れたころに戻ってきた李
すると考えた方がいいです。

時間がかかるわけで、
それは必ず労働は「余剰」を生むことが
前提とされるからです。

「余剰」を生むことで共同で労働している
人全員に必要な利益が返ってくるわけで、

こんな感じで、
自分一人で享受しない前提だからこそ
その場で必要な分以上の働きで「余剰」を生まないといけません。

この「余剰」を生むことが前提となるが
ゆえに労働は等価交換でなく、
利益が還元されるのが遅いです。

なので、いつも働くからには
必要以上の労力を捧げてるのは当たり前です。

これが理解できないとやっぱり働くのは辛いわけです。