未分類

教育コンテンツを売ること

「教育」にお金はなぜ発生するのでしょうか。

学校で学んだことを家庭教師
の先生に教えてもらうとか、
塾に行って学ぶとかすることもできます。

にもかかわらず学校に通って、
そのあとでお金のかかる家庭教師や
塾に、補足的に学校の勉強を学びに行ってた時期ありましたね。

ここでやはり学校の先生の専門性やら
学校の意味が問われるところです。

この点に関して私はしっかり応えることは
できませんが、考えるポイントのようなものは
挙げられると思います。

お金の発生する教育とそうでない教育
という分類で進めます。

まず、普通に通う学校というのは
ひねりも何もない何の変哲もないところです。

t


「自然」について考える


昔お世話になったとある人がつぶやいた
とある言葉から、
より「自然」であることについて、考えます。

大学院時代のちょっとお世話になった
とある先生の授業で、
どういう経緯か忘れましたが、

自炊することの良さ、
みたいな話になりました。

その先生が言うには、
出来合いのものを食べるのはちょっと…
というようなことだった思うのですが、

そんな話があって、

根拠とかまったく記憶にないんですが、
なるべく自然に近い状態から
自分の手で料理することが大事だ、、、

みたいな、
家事するメリットの話になると
よく聞く話が展開されてました。

確かに、レタスや白菜やニンジンや

畑から出荷されてきたままに近い
状態で自分で作った方が

何をどう加工したかわからない
出来合いのものよりも
健康によさそうですよね。

でもそれとは別で、ここでは「自然」、とか「素」、
に近い方が「良質」という人間的な趣向が働いている
ことがうかがえます。

ですが、
究極的に「素」に近づきすぎると

じゃあ、「自分で畑で野菜つくるところから
はじめよっか!」ってなるから

これにはある程度の限度が
考慮されているなと
思いました。

実際、本人は畑に繰り出すつもり全然ないけど
「自然態」ではじめることを
強調する人はいるんじゃないかと。

だから、この程度までの「人工的な部分」
は認められるけど、ここから先は
「自然」じゃないとダメという

どこからどこがオッケーで
どこからどこか違うのか
精査してみると面白いかもしれません。

ビジネスのスタンダード

今日はビジネスのスタンダード
常識になっている行為とか
考え方そのものについて考えていきたいと思います。

ビジネスのスタンダード、
つまり皆がが常識と思っているものは
何でしょうか。


報告・連絡・相談が上手くできている人。

つまり皆が最適と思うタイミング、
仕方、内容で報告・連絡・相談ができる人かなと思います。

これをスタンダードとした場合
当然こぼれ落ちる人はいます。

何かを基準とした場合に、
かならずそれ以前にほころびは注目
されてきます。

お金と稼ぐ

昨日はお金が「動的」なもので
それ自体には価値がなく、

それを動かすことに意味があるという
ところまでいきました。

今回はどうしたら
そんな交換価値の高いものをいきなり

稼げるはずだと思う理由はなんでしょうか。

商品とかお金とか

昨日に引き続きお金について
考えていきたいと思います。

昨日、お金を儲けたいって
思うのは全然うしろめたく
思う必要ないって言いましたが、

注意しておきたいことがありまして、
当たり前なんですが、

「カネカネカネ」って
そればっかり考えてるのがいいわけではないです。

そればっかりだと、
自分のことしか考えてない人認定受けて、
信用を無くします。

この信用ということと
お金は深い関係にありそうですが、
今日は置いておいて、

「商品」とは何かについて
さわりの部分だけ考えたいと思います。

「商品」の意味についてネットで調べると
交換される品物とか
売る物とかそんなような言葉が出てきます。

お金と交換して得るもの
それが「商品」ってわけですが、

「交換」という動的な
「動き」が強調されるということが分かります。

動的なものとお金との

関連性については、
まず何と言っても
お金それ自体に

価値はないということでしょう。

ここからさらに明日以降発展させていきたいです。

お金儲けを受け入れる

自分にお金をたくさんもらう価値あるのか?

と疑問を持ち、ネットビジネスに
ブレーキがかかる人が多いかと思います。

直接自分のところに
ネットの誰かからお金をもらっていいのか
不安で、だからこそ

企業に入って間接的に
お金をもらおうと

企業に入ってワンクッション置いて
自分にお金がくるようにする、
というのが私のかつての発想でした。

でも、こういうブレーキかけちゃダメで、
お金を払う価値のある自分ってどんな自分か

すごく俗っぽく見えるけれど
それ考えて学ぶ必要があると思います。

お金について単に毛嫌いする


天然でいられない


空っぽな生き方に憧れてきました。

天然とも言えるような、
空っぽであるがゆえに、どんな
ものでも受け入れられる、

そんな生き方です。

のらりくらりと
空っぽであれば
楽だし生きやすいかなと。

自分が空っぽで
色んな人のパイプになって
うまく器として機能してるっていうのに憧れてたんですけど、

どうしてもそんないい感じのアホには
なりきれなかった悲しさがあります。

こんな人生を生きよう、
と理想をかかげたところでもう
天然には生きられなくて

逆に自分の「身重(みおも)」
なところが意識されて
辛くなるという感覚です。

最近、これは女性の身体を持っている
というところとも絡んでくるような
気がしているんですが、

逆にいよいよ「身重」に
なることが人生の方から
求められている

そんな感じがこのごろします。

「身重」になるとはどういうことかというと
責任を負う、とか人の面倒をみるとか

身近なところで言うと
ちゃんと家事やら後片付けを
しなきゃならないということだったり

仕事だったら、もっと
重い責任ある仕事だったり、
めんどくさい事後処理だったり

それ自体にはまったく
華がなくて、地味な、けれども
だれかがやらなきゃならないものを背負わなきゃならない

そんな辛さを実感します。

でも、それを背負うことでまた
新たな人間性のようなものが
生まれてくるんだと思います。

といいますか、
そもそも元からそういう責任
って誰でも背負ってるもので

それにしみじみ気付くか気付かないか
の違いでしかないんですけどね。

そろそろ
背負うことの原理とか、
責任論にでも手をだそうかなと思う今日この頃です。

自分の冷淡さにくるしむ

私はなんて他人のためを思えないんだろう、
ここまで冷淡だなんで思わなかった…

こんな感じで自分の
冷たさを自覚して苦しむことってないですか?

「他人を思いやれない」
について考えていきたいと思います。

結構自分は冷めきってるな、とか
もっと言うと、人のためを思えないとか
思っている人はいったい何を思っているのでしょうか。

これは単に、どれほど自分が
冷たさと痛みと苦しみの中で
耐えてきたかに影響するところがあります。

こういった苦しみの中でもがいてきた人程
思いやりがある…

ではなく、

そういう人程実は人に痛みと苦しみを与えようとします。

なぜなら、自分はもう
苦しみを乗り越えてしまっているからです。

そして他人にも、自分はこんなに
痛い思いしたんだから

あんたも苦しみなさい
社会って、人生って
そういうものよ。

苦しんだ分だけ偉いんだと、

乗り越えた私は
すごいんだと
誇示したいのが透けて見えてくる人いますよね。

いえ、たしかに苦しみ乗り越えたのはすごいですよ。
でも、それを他人に誇示して

マウントを取とかするのは

ちょっと違うと思う…、、

自分の…

このごろますます
自分ってのは空っぽで
単なる入れ物だなと思えるようになりました。

他者からの声
に応答しているだけの
入れ物だなと思えるようになって、

いったい主体性とか、能動的とか、
自発的に仕事しなさい、ってどいうこと?

ってなります。
これらの語りが間違っているとか
言うつもりはなくて、

ただ語りに対して
意見をひねり出して…

でも、これは
完全に他者への応答で成り立っています。
他者がいるからこその自力であるという
面白いところまでいきました。

優越感にひたれる場所

人は優越感に浸りたいものです。

とある本をむしょうに読みたくなって
何でか考えてみたら、
優越感にひたりたいから

ということが分かりました。

絶対思考が鍛えられて、
いい記事書いて優越感にひたれる

そんな気がして
本を読もうとしたり、
ネットの記事見たりします。

なるべく優越感にひたれる場所にいたい
わけですが、ではいったいそんな場所はどのように
生成されるのでしょうか。

優越感にひたれるということは
少なくとも自分より「下」とみなしうる
存在がいるということです。

だれかを「下」にして
自分を押し上げようとしているのは
あくまで虚業にすぎないです。