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目的はなにか

メルマガを書いていると
やはり目的を共有しないとなって思います。

自発性について

仕事で結構自発的に動くように
言われます。

私はいわゆる「マニュアル」世代だから
ってことでマニュアルがないと動けないと
思われています。

でも、マニュアルとか、
既存のやり方抜きで行動できる人って
いないと思っていて、

結局依存しているか依存していないか
ってのは見た目の態度の違いだなと。

長文を書かなきゃならない

長文を書くのがしんどいから
ツイッターから始めるという人
多いと思います。

最後にまとめて長文にして、
リライトすればブログにツイッターで
投稿したものを応用できる…

と考えるかもしれませんが、

ツイッターの、あの縦長スクロールから
かつてのツイートを探す、まとめる、の作業って
結構大変だよな…

と思ったのですが、これは「ブログで過去の記事どうしを
つなぎ合わせるのめんどいなあ」
という今の思いから導き出された感想です。

自由?―第五弾―

いよいよ「自由」なんて
定番のテーマでやってるのが
こっぱずかしくなってきましたが続けます。

社会的な自由ではなくて個人の中の
内的な自由がテーマですが、

その場合いつも引き合いに出される
事柄を取り上げるのを忘れていました。

それは、たとえ周りがその人のことを
「不自由だな」と見ていても、

本人が自由だと感じたならば
それは自由だっていうあの心の自由です。

学ランのボタンは一番上のボタンまで
しっかり留めないといけないとか、

朝は先生にあいさつしなければならない

とか、学校でしつけられるあれらの
規則を窮屈だと感じたならば
学校生活が自由だとは思わないですが、

それらの規則を守るのに
窮屈さを感じないのであれば
「自由」をそれとは意識せずに享受しています。

窮屈さ、「不自由さ」を感じたら
はじめて「自由」が求められるわけです。

なので、それほど「自由」を欲さない状態こそが
自由なのであって、

であれば、いかなる理由であれ、
自由を欲する場合はいつまでも自由になれない、、、

というのは飛躍しすぎでしょうか。

いったいいつから

いつからか、自分はお金をたくさん稼ぐ
能力はないなんて思ったのだろう?

今現に稼げていないから…

自由?―第四弾―

はい。

第四弾です。

コントロールできるって意味で
「自由」であると思い込んでいる
っていうところでした。

確かにコントロール、自由自在なので
そうですが、

ただ、同時「自由」って言葉には、
「楽」、とかやりやすさみたいなものも含まれていて、

それにもかかわらず
忙しいけど「自由」な人には
この「楽」さとかやりがいみたいのが
見いだせない、と個人的には思います。

話がずれてきますが、
確かに枠組み上は自由なのでしょうけれど
実際そういってる本人は「自由」を味わっているかというと

そうでもないので、
だからこそ今の会社でしっかり
重要な役職もらったり、責任ある行動取ることが嫌なんです。

誤解の無いように言っておきますが、
責任取らないって言ってるわけではなくて、

そこはちゃんとしますけど、

要は殊更に「オレは自由だ」って言われたとしても
特に響くものはないってことです。

自由?―第三弾―

全然「自由」じゃないのになぜ
「自由」だなんて言って責任取らせるのか。

でも、やっぱりそこには「自由」っぽい何かが
あって、それを主張しているってことになります。

では、この仮の「自由」の正体はというと、
やはり広範囲にわたって、自分のコントロールが
効いてくる感覚があるからでしょう。

以前よりも自分のやりたいことができる
ようになって、環境がよくなったとか。

自由?―第二弾―

自由の原理についてあまり詳しくないので
これまた個人的な因数分解にはなってしまいますが、


ここでひとつ、よく語られる
「労働からの自由」ってやつについて
見ていきたいと思います。

まず、「労働における」とか言っときながら
これであってるのかと実は不安がありまして、

この「自由」について考えるきっかけに
なったのは、「責任」とか「マネジメント力」とか
そういう話の流れからです。

以前に、全体的なマネジメントができる人は
自由か?って話をしましたが、

今回もその延長だと思ってください。

先週、また仕事でミスってしまって、
そのミスに対してどう責任を取るか問われる場がありました。

責任をとって、どうかたをつけるか
考えて実行する人は自由が与えられる…

みたいないつもの話を上司にまたもや
滾々と説教され、

まあーなんと言いますか「自由」と「平等」でしょうか?


「平等」はやっぱり広がりすぎなのかもしれませんが、
ここでは関係者みんなが不利益にならないように
マネジメントすることと捉えてください。

まず、「自由」ってのは
人間だれしも実はあるもので、


今仕事をやめるのも、続けるのも完全に
個人の自由でできます。

ですが、いずれの道をとっても
不利益を被るので
「自由」が無いなあ、と感じてしまいます。

もともと皆「自由」ですが、
どの行動を取っても「不快」がともなうので
硬直状態になり、悠々自適さがなくなったと感じられます。

ここで「不自由」な身の上が実感されて、

ああ「自由」が欲しい…

となり、「ここではないどこか」を探し求めるようになります。

「自由」は求められるものなんですね。

では、責任を取ったり、取りまとめ
ができる人はこの「自由」な状態
かというと、決してそうでありません。

もちろんすべてのものごとを一般化すること
すはできませんが、少なくともウチの上司は
「自由」そうには見えません。

本人は自由だ自由だいうてますけど…

毎日お客にせっつかれて、
時間が無くて、社長にも売上どうなってるのか
つつかれて、仕事のできない私みたいなのの世話して…

不自由以外の何ものでもないように見えます。

ですが、ですが、
それでも「自由」と主張したくなるのはなぜか?

これがポイントだと思います。


職場で感じたあの痛みが…

職場でけなされ、笑われ、卑下される

あの時の屈辱がもう去っている

のど元過ぎてもうどこか行ってる

皆誰かの真似をしている

結局、
自分の考えなんてのはなくって、
皆誰かが言っていることを

自分の言葉で咀嚼して
伝えているだけだな、って思いました。

それというのも、自分独自の思考だぜ
って思っていても、結局それはあまりにも
気弱でもろいからかもしれません。