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情報と責任

ある程度情報、
それもあまり出回っていない情報に触れると

興奮すると同時に、
責任感も襲ってきます。

これを人に言っていいものか
分からないままにしておくか…

この世の広さを実感する

一日中パソコンにこびりついていると、
やっぱり頭が痛くなってきますね。

それで、やっぱり自然の中に行かないと
だめなんだなーなんて思い始めます。

でもそんなところに行くために腰なんか
あがらないので

仕方なく自然を感じられる森の音とか
川のせせらぎの音をYoutubeで聞きます。

自然に触れることのメリットって何でしょう。

数えきれないほどあるかと思いますが、
個人的にはやっぱり自分の手に負えないぐらい
大きなもの、

自分の意図しないようなところで
大きな動きがあるということ

それを実感することだと思います。

これを実感しているかいないかで、
個々人の視野の広さにも影響しているんじゃないかと
思います。

上手くは言えませんが、
謙虚さがあって、初めて視野が広くなる
と思っているので、

視野を広げ、器を大きくするための一歩である
「謙虚さ」を身体レベルで実感できる
からこそ自然の大きさを体感することは

求めずして人間が求めてしまうことなのだと
思います。

アイデア出し方の問題

今、職場でコンテンツビジネスを導入する話が
出ています。

提案したのは私です⤴

「なんでもっと早く提案しなかったんだ」
「こんな隠し種をもっていたとは」

みたいなこと言われましたが、私も
職場で出すつもりなかったんで
仕方がありません。

職場は工場をもった製造業で、
それも企業向けにしかあまり販売しない商品なので、
いまいちコンテンツビジネスとからまないなと思い

提案を渋っていました。

それに上司との仲はそんなに良くないし、
下っ端が目立つのはなぁと思って
控えてました。

じゃあ、なんで今になってコンテンツビジネス
の提案書を出せたかというと

とある同じ部署の先輩が、
自分の好きなこと・趣味を会社に持ち込んで、
稼ごうとしていたためです。

その熱に推されて持ってるもの出しちゃいました。

現に、私もその分野で成功してやろうと思っていたところ
なので、ひそひそ持ってるよりは知ってること吐き出して、
反応をもらいました。

反応もらうのは結構長引く可能性がるので
バランスとりながら、ですね。

分析に熱狂する

単に感情的にものごとを捉えるより、
分析的な思考が重要、とよく言われます。

何故それをするのか、
何故それはそうなっているのか、
そうなった経緯は何か、

というように、その事象を分解して
解析することで一歩深い知見を得られる
とされます。

しかし、この分析ですが、
分析が進めば進むほど、
感情的になって「熱狂」するということがあります。

個人的な感覚なのかもしれませんが、
分析することでものの本質を探り当てたような
自己満足感に浸っているのかもしれません。

この「熱狂」の波を伴いつつ
分析していることもあるわけで、

分析は客観性と連れ立って
なされるものと思われがちですが、
実は情熱的に行われることなのではないかと

最近は思います。

感情的な客観性、

感情的な分析

思考には結局、
一つのスタイルにこだわれない
ところがあるなと思います。


理解することと身体

よくわからない哲学書を読みます。

よくわからないので初めの章を読んで
終わるということがよくあります。

ですが、どうもやっぱり
これら難解な書物を理解しようとすると
その人の文体と呼吸を合わせる必要があります。

頭で考えてもだめで、
リズムがなんとなくわかることから
理解がはじまるなと最近思いました。

ストーリーをつくるむずかしさ

いやあ、
やっぱり理念を語れっていいますし、
同時にストーリーを考えていくように

なったとしても
同じような生活を送るだろうと思います。

ここで何が言いたいかと言うと、
幅をひろめるためには
ストーリーが必要で、これを考えるには

やっぱり時間がかかってしまうんじゃないかと

部屋のちらかり

本当に部屋の散らかり具合の
許容範囲は人によって
まちまちで、

私なんかは割と気にしない方らしいです。

職場では下っ端のわたしが
片付け、掃除をまめにやらなきゃならなくて

やってるつもりでも
先輩からしたらまだまだイマチきれいに
なってないらしくて

仕事できないヤツのレッテルを
また貼られるわけです。

キリがないと言えばそうですが
この整理整頓されぐあいの違いが
いろんな思考回路の違いと比例するのかもしれません。

雰囲気と体験価値

雰囲気を買いに行くことありますよね。

同じコーヒーを飲みに行くのに
わざわざ一杯の値段が高い方でも
おしゃれな喫茶店ならそっちで飲もうとすることがあります。

これは体験価値を求めているといえるのですが、
その体験価値の中でも良くわからないのが

「雰囲気がいい」を味わうということです。

雰囲気の消費ですね。

これ、即席でつくった感じがしてはだめ、
あと、誰もがそれを「いい雰囲気」と認める
だろう、という了解が前提になければならないなと。

もの凄くあやふやでもろいものなのに
「雰囲気がいい」と値段が高くなるのが
面白ポイントです。

気軽に声をかけること

誰かに気軽に声をかけるということが
できません。

うっ、うっっ
○○さん!

という感じで、しかも
うっ の前には何回も唾をのんでいます(-_-;)

つくづく自然に声かけられる人って
どういう思考回路でいるんだろう?
どういう感覚で声かけてるんだろう?

と疑問をもたざるを得ません。

これが簡単にできるようになったら
職場の人間模様もよくなるのかなぁ、
とか考えつつ

もしかしたらこれも各自が発見するべき
「文体」なのかもしれません。

ちょうど文章を書く時や発話行為をするとき
必ずなんらかの文体を真似ているわけなので、

気軽な一言二言でも、ほとんどいつも
声かけてる人って「型」にはまっています。

これが文体のもつ凄さであり、
知らない間に発動している怖さも感じられる
ところです。

物語を編む

精神療法の一つに
カウンセラーの先生と患者さんで、
患者さんの過去の物語を編むという

セラピーの手法があるそうです。

過去を語るとき、それは絶対に
過去の記憶そのままではなくて、
必ず物語として編まれ直す

ということが起きます。

その過去の語り直しということがなされて、
過去にけりをつけるというか、
消化するということがなされるそうです。

ですが、これはなにも精神疾患のある人
のみならず、誰に対しても有効な
手段だなと思っています。

例えば、Youtubeやブログでもよく
発信者が自分の悲惨な過去を語ってますが、
あれなんかはまさに語り直しで、

過去に対して自分の中で納得して、
なおかつ読者や閲覧者に共感をうながしています。

なので、過去は語り直されることによって
初めて自分の血肉になり、
自分の経験になる、といえるのだと思います。