自由の原理についてあまり詳しくないので
これまた個人的な因数分解にはなってしまいますが、
ここでひとつ、よく語られる
「労働からの自由」ってやつについて
見ていきたいと思います。
まず、「労働における」とか言っときながら
これであってるのかと実は不安がありまして、
この「自由」について考えるきっかけに
なったのは、「責任」とか「マネジメント力」とか
そういう話の流れからです。
以前に、全体的なマネジメントができる人は
自由か?って話をしましたが、
今回もその延長だと思ってください。
先週、また仕事でミスってしまって、
そのミスに対してどう責任を取るか問われる場がありました。
責任をとって、どうかたをつけるか
考えて実行する人は自由が与えられる…
みたいないつもの話を上司にまたもや
滾々と説教され、
まあーなんと言いますか「自由」と「平等」でしょうか?
「平等」はやっぱり広がりすぎなのかもしれませんが、
ここでは関係者みんなが不利益にならないように
マネジメントすることと捉えてください。
まず、「自由」ってのは
人間だれしも実はあるもので、
今仕事をやめるのも、続けるのも完全に
個人の自由でできます。
ですが、いずれの道をとっても
不利益を被るので
「自由」が無いなあ、と感じてしまいます。
もともと皆「自由」ですが、
どの行動を取っても「不快」がともなうので
硬直状態になり、悠々自適さがなくなったと感じられます。
ここで「不自由」な身の上が実感されて、
ああ「自由」が欲しい…
となり、「ここではないどこか」を探し求めるようになります。
「自由」は求められるものなんですね。
では、責任を取ったり、取りまとめ
ができる人はこの「自由」な状態
かというと、決してそうでありません。
もちろんすべてのものごとを一般化すること
すはできませんが、少なくともウチの上司は
「自由」そうには見えません。
本人は自由だ自由だいうてますけど…
毎日お客にせっつかれて、
時間が無くて、社長にも売上どうなってるのか
つつかれて、仕事のできない私みたいなのの世話して…
不自由以外の何ものでもないように見えます。
ですが、ですが、
それでも「自由」と主張したくなるのはなぜか?
これがポイントだと思います。
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