2021年 6月 の投稿一覧

問いをめぐって

問いの力、というものがいよいよ
私の中で意味をもってきました。

わりと世間的にも「答え」より「問い」が
大事、という流れがきていて、
今まで以上に「問い」が問われるようになってきたなと。

でも、そもそもなぜ「問い」の考察が
求められるのか、
そこにどのような意味を見出しているのか、

考えていきたいと思います。

流れとしては、まず「問い」のなせるわざについて
ざっくりとおさらいしていきます。

そのあと、その「問い」の性質から
導き出されるさらなる問いを提示して
みます。

ではまずはじめに、「問い」のなせるわざというか、
性質というか、問いの生み出す効用についてです。

これはもちろんそれまで考えてきた
固定的な概念を打ち壊すはたらきがあって、
打ち壊されてそこから新しいものが生まれることです。


発想の転換をうながされるところが
ひとつ「問い」のもつはたらきと言えるでしょう。

また、別の性質になりますが、

問いは答えと対になって、
便宜的に二項対立しているように見えていますが、
個人的な実感として、問いも答えもセットになってる感じがあります。

もっと言うと、答えと問いとがセットになって
運動しているのが「問い」かな、という
感じがしています。

「問い」は常に答えを壊すはたらき
をもち、その意味で常に答えと
隣り合わせですし、

問われるということは
そもそも答えが予感されている
ことなので、やはりセットなのだと思います。


めざしている文体

どんな文体を目指しているか
書いていこうと思います。

でも、自分の文体なんて
自然に決まるものであって、宣言するものじゃない
と考えています。

じゃあなんでここで言うのかというと、

宣言することで、結果的に目指していたところ
とは違っていても、何かしら形をもって

今までよりは力のあるものが書けるんじゃないかと
思うからです。

具体的にどんな文体にしたいか、
どんなスタイルの文章にしたいかというと

読む人の「問い」の生成過程に伴奏できる
ような文章です。

なんで読む人の「問い」にアプローチするかは、
単純にそれに寄り添うことで、
問い求めのおもしろさをもっと知ってもらいたいからです。

なので、ちょっと前に進みやすくなる
ように、ほんのちょっとだけ、

とんっ

と背中をそれとなく叩くような

そんな感じのことを文章通してできたらなあ、と。

あとは、知らないことを知ってるふりしないで
知らないことは知らないということで

いつでも素直に反省しやすい文体に
していけたらいいなとも思うからです。

書いていくうちに知らないこと、
あれも書きたいけれどもどうにも
理論が完成していないときってありますよね。

そういう、
言及したいけれどもやめとこか

というようなことでも「問い」で
締めておけばある程度余韻が残って
当たらずも遠からずでそれに触れられます。


製造業にみらいはない?

製造業は機械の仕事だから
そのうち無くなるとか言う
文章を読みました。

いや、まさにこんなことを会社で
思ってしまうんです。

なくなりはしないだろうけど、

今後は大変になっていくだろうなと思います。

高単価で情報を売るということ

高単価で情報を売るビジネスモデルが
詐欺だなんだと色々言われる
のですが、これについて

やはり複雑な思いが湧いてくるので
そのあたりをちょっくら書こうと思います。

整理するつもりで書いていくので
いつもながら散らかったりしますが、
ご了承ください。

高単価っていうところが
いかんのかなあ

確かにこの業界には詐欺があって
高額な金額支払ったのに
何ももらえないとかは

ありますが、そうでないものもあります。

そうでないものに感銘を受けてしまった
経験があるので、それを押したい気持ちがあります。

でも一方で詐欺もあるので、
なんともやりずらいです。

でも、結局自分で納得できるかどうか
がすべてのカギなのかなと。

それを高単価で売っても身体感覚的に
違和感がないのであればそれでいいのかなと。

等価交換で考えると苦しくなる2

昨日のつづきです。

等価交換で考えるとは、
すなわち辛い労働に対してすぐに対価が
自分に与えられるだろうと思うことです。

でも、労働がそもそも原理的に
等価交換ではないので
戻ってくるものはすぐ戻ってくるわけじゃなくて、

もっと先々に忘れたころに戻ってきた李
すると考えた方がいいです。

時間がかかるわけで、
それは必ず労働は「余剰」を生むことが
前提とされるからです。

「余剰」を生むことで共同で労働している
人全員に必要な利益が返ってくるわけで、

こんな感じで、
自分一人で享受しない前提だからこそ
その場で必要な分以上の働きで「余剰」を生まないといけません。

この「余剰」を生むことが前提となるが
ゆえに労働は等価交換でなく、
利益が還元されるのが遅いです。

なので、いつも働くからには
必要以上の労力を捧げてるのは当たり前です。

これが理解できないとやっぱり働くのは辛いわけです。

等価交換で考えると苦しくなる

何でこんなつまらない仕事を
しなきゃならないんだろう?

何で給料上がらないんだろう
あの先輩よりも結果出してるのに…

なんてことを思っている若者が多いのだとか

私もその若者のひとりなんですけど(-_-;)

これは例えばトイレ掃除を無条件に毎日やらされている
ことだったり、同じ業務内容でも給料が違っていること
知ったりした場合に湧いてきます。

境界

今日、職場でミスは誰も自分が責任と思っていない
ところに発生しやすいという話になりました。

確かにそうで、
自分に必ず責任が発生するとわかる
ところはちゃんとするけど、

他人との境界線にある業務とか
あいまいな部分は必ず手付かずの
ところに置き去りにされ、

ある日それが大きなミスとなって
浮上してくる。

そんなことがよく起こるかと思いますが、
今日はこのトラブルは必ず
だれも責任とろうとしないところに生まれることについて

責任論とかといっしょに見ていけたらと思います。

まず、
自己決定して、自己完結、自己がすべてと思っている
人はかならず自分の起こしたトラブルに対しては

対処するけれど、
他人がやらかしたトラブルは自分には関係ないから
他人は他人で解決してというのが好まれます。

そして、この自己完結主義的な言動は
周りの信頼をなくし、
結果的には捨て去られます。

自分一人でやりたい、自分一人で
決めたい。

このような欲求があるかとは思いますが、
これを一度押さえてみて、

等価交換が機能していないところで
完全体でいられるかたも勉強してみてください。

文章の終わらせ方

私の文章はよくわからないところで
終わることが多いです。

ブログでいい文章書けるようになるために、
とあるライティング講座で文章を
添削してもらいました。

その添削した結果として

「内容はいいけれど最後が尻切れトンボになってます」

ということをよく言われ、

指摘は受けるけれどどうやって
直せばいいのかよくわからない…

ということがよくありました。

それ以来ずっと悩み、考えてきたつもりですが、
ずっと浮かんでくるのは

これも円環運動なんだな、
ということです。


なにかを完結させるとは、
円を描くということかと。

それもしっぽと頭がぴったりくっつく
のではなくスタートよりもゴールが少し
上に重なっている円です。

文章の最後はやっぱり
「まとめ」なので、
まとめるということはスタートにもどりつつ

スタートよりも一段あがったところから
スタートを見返すということです。

こう考えると、

じゃあ途上の過程は曲線を
描くことになるのか?

となってよくわからなくなりますが、
これははじめから円の大きさを想定
することと関連します。

とある文筆家のライティングに関する
記述を読むと、

始めと最後だけパッと
浮かんできて、書き始められる~

なんてことがあるらしく、
やっぱりいい終わり方ができるのは
あくまでスタートとゴールがなんとなく

分かっているからなのかなと
思います。

ただ、間違ってはいけないのは
なんとなく最初と最後は見えているけれど

過程は案外変わったりするもの
なんだということです。

円の大きさや小ささが
変わるような感じで随時変わるもの
なのかもしれません。

よく分かりませんけど…


問題点いろいろ

問題がどこにあって、
スムーズに仕事ができなくなっているのか。

皆はできるのになぜ私ができないのかが
頻繁に問われます。