今日も仕事はグダグダで、
そんなんで大丈夫かと声をかけられるくらいでした。
グダグダであることが一般的
であれば何も声かけられないだろうと
思うけれどそういうのは助けてもらえなさ
すぎるのかもしれない。
今日も仕事はグダグダで、
そんなんで大丈夫かと声をかけられるくらいでした。
グダグダであることが一般的
であれば何も声かけられないだろうと
思うけれどそういうのは助けてもらえなさ
すぎるのかもしれない。
問いを問うことの
奥深さとか、面白さについては
書いてきたような気がしますので、
今日は答えをひとまず用意すること
について考えます。
答えはいつも「そうとも言えるし
そうとも言えない」、そんなものです。
かならずその逆なり、偽なり、
否定される要素というのが対になって
存在します。
でも、ひとまずあることが
「答え」として仮定して、
前に進んでみるということが
どうしても必要な場面が多々あります。
そういうときはどうするか
前回のつづきです。
前回は共同で働くことがずっと
辛いものだったという話でした。
指摘されたり、せっつかれたり、
大変なことしかないから嫌だと。
でも、
共同でなにかをすることは
強い個人同士で集まってやると
すごい大きなちからになるという
ことを学びました。ありきたりな話ですが…
自分のできることはこれで、
これはできない、ということが
ハッキリわかって、
それを一緒に働いている人に伝えられることで
強い集団ができると。
ですが、今まで苦しんできたのは
「自分のできること」がないから苦しんで
来たので、結局何も変わらないと言えば
そうなんですが、
でも、できることって、
実はあったよなと分かるようになったので
それが今回の気付きの肝かもしれません。
よく先輩に、私には「安定してできる仕事がない」
って言われてきました。
安心して任せられることがないから困る、と。
でも、それは逆に安心できないものを
安心、安定していると勘違いしていることが
問題なのであって、
別に私の不安定さ=何もできない
ではないなと。
安定していることのみが「できること」
ではないということを私も含めて皆が
勘違いしていたところに問題があったのだと
そう考えると「できること」というと
たまに間違えるけど「伝票作成」はできる。
たまに声のトーンおかしいけど概ね「電話対応」は
できる
たまに報告しわすれるけど「報連相」はできる
できることはあるわけだから
そこで落ち込む必要はないなと思うにいたりました。
問題なのは周りの他の人に比べて
失敗する頻度が多いということです。
でも、ここで同時に、
「元来仕事ってミスがつきものなんだ
ということを皆に自覚させる」
ということを教える仕事が私には
「できる」という話も成り立つなぁ~
と、そんなことも思ったりするようになりました。
で、
そんな感じで自分のできることは
伝え方次第でどうにでもなるし、
活かしていく方法は見つかるということです。
「何ができて何ができない」を
相手の要望に沿って伝えることができる
能力が必要とされます。
そして、この能力が身に付いてしまえば
共同で仕事すること、相手と協力して
何かを進めることは
逆にとてもやりやすくなるし、
刺激的でいきいきとしてくるんじゃないか、
そんな予感がしてきました。
単に「何ができて何ができない」かを
伝えるだけと言えばそれだけなので、
やることが分かった以上、
スッと気持ちが楽になるわけです。
これが今まで辛い辛いと思っていた
共同仕事に対する考え方の変遷過程です。
ほんとチームワーク、みんなで一緒に、
共同で、っていうのが本当に嫌いです。
ですが、少しだけ、
ほんの少しだけ共同で何かをすることの
わくわく感を今日の読書で味わえたので共有します。
まず、嫌だったこととして、
誰かと仕事をすると決まって不都合が生じる
こと、不都合が明るみになること。
誰だって一人なんて状態はあり得ないので
そもそもどんな人でも誰かと仕事や行動は共に行う
ものだとは思いますが、
とにかく話しかけられて応答責任
の必要な内容だとわかると無視したり、
睨み返したりしたくなります。
「もうだれも私に話しかけないで!」
という心持になって
次第になにもしたくなくなっていく…
誰かと共同でなにかをするとはそういうことを
意味していました。
考えてみると、
コミュニケーション能力って数字で測れない
能力だなと。
つい忘れがちですが、
伝え方の上手い人とそうでない人確かに
いますが、それらの違いは数値化できません。
コミュ力が高い、低いとか
コミュ力高いと褒められるとは
つい数値化したくなる文脈で語られることが多いです。
コミュニケーションとは、この
数値化できないわけわからなさと向き合うことです。
今日職場で社長と面談しました。
困ったことはないかと聞かれましたが、
相変わらず「特に何もないです!」と
応えました。
不満はありすぎて言えないくらいあるんで、
もう大分前からこの姿勢なんですけど
というか言ったところで変わるのか?
ってのもあるしいつも可もなく不可もなくの
応えを言っています。
そのうちパンクするのかな?
って思ったりもしますが、
でもつくづく何でこんなに世界を呪っている
んだろうと思います。
もらってるもの、得ているものも
多いはずなのになんで全部ダメなんて
否定的なのか
興味はあります。
あいさつするにも、
書類をコピーするのも、
電話が鳴って元気よく応えるのも
すべてが嫌で、でも不思議と周りは
そんな人一人もいないみたいで
なんか私だけがこんな否定的かなと思います。
会社のドアノブでさえ嫌気がさすレベルなんですが、
結構世の中いい人が多いのか?
それとも皆そんなに気にしてないのか
ある程度情報、
それもあまり出回っていない情報に触れると
興奮すると同時に、
責任感も襲ってきます。
これを人に言っていいものか
分からないままにしておくか…
一日中パソコンにこびりついていると、
やっぱり頭が痛くなってきますね。
それで、やっぱり自然の中に行かないと
だめなんだなーなんて思い始めます。
でもそんなところに行くために腰なんか
あがらないので
仕方なく自然を感じられる森の音とか
川のせせらぎの音をYoutubeで聞きます。
自然に触れることのメリットって何でしょう。
数えきれないほどあるかと思いますが、
個人的にはやっぱり自分の手に負えないぐらい
大きなもの、
自分の意図しないようなところで
大きな動きがあるということ
それを実感することだと思います。
これを実感しているかいないかで、
個々人の視野の広さにも影響しているんじゃないかと
思います。
上手くは言えませんが、
謙虚さがあって、初めて視野が広くなる
と思っているので、
視野を広げ、器を大きくするための一歩である
「謙虚さ」を身体レベルで実感できる
からこそ自然の大きさを体感することは
求めずして人間が求めてしまうことなのだと
思います。
今、職場でコンテンツビジネスを導入する話が
出ています。
提案したのは私です⤴
「なんでもっと早く提案しなかったんだ」
「こんな隠し種をもっていたとは」
みたいなこと言われましたが、私も
職場で出すつもりなかったんで
仕方がありません。
職場は工場をもった製造業で、
それも企業向けにしかあまり販売しない商品なので、
いまいちコンテンツビジネスとからまないなと思い
提案を渋っていました。
それに上司との仲はそんなに良くないし、
下っ端が目立つのはなぁと思って
控えてました。
じゃあ、なんで今になってコンテンツビジネス
の提案書を出せたかというと
とある同じ部署の先輩が、
自分の好きなこと・趣味を会社に持ち込んで、
稼ごうとしていたためです。
その熱に推されて持ってるもの出しちゃいました。
現に、私もその分野で成功してやろうと思っていたところ
なので、ひそひそ持ってるよりは知ってること吐き出して、
反応をもらいました。
反応もらうのは結構長引く可能性がるので
バランスとりながら、ですね。
単に感情的にものごとを捉えるより、
分析的な思考が重要、とよく言われます。
何故それをするのか、
何故それはそうなっているのか、
そうなった経緯は何か、
というように、その事象を分解して
解析することで一歩深い知見を得られる
とされます。
しかし、この分析ですが、
分析が進めば進むほど、
感情的になって「熱狂」するということがあります。
個人的な感覚なのかもしれませんが、
分析することでものの本質を探り当てたような
自己満足感に浸っているのかもしれません。
この「熱狂」の波を伴いつつ
分析していることもあるわけで、
分析は客観性と連れ立って
なされるものと思われがちですが、
実は情熱的に行われることなのではないかと
最近は思います。
感情的な客観性、
感情的な分析
思考には結局、
一つのスタイルにこだわれない
ところがあるなと思います。
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