2021年 3月 の投稿一覧

お金儲けを受け入れる

自分にお金をたくさんもらう価値あるのか?

と疑問を持ち、ネットビジネスに
ブレーキがかかる人が多いかと思います。

直接自分のところに
ネットの誰かからお金をもらっていいのか
不安で、だからこそ

企業に入って間接的に
お金をもらおうと

企業に入ってワンクッション置いて
自分にお金がくるようにする、
というのが私のかつての発想でした。

でも、こういうブレーキかけちゃダメで、
お金を払う価値のある自分ってどんな自分か

すごく俗っぽく見えるけれど
それ考えて学ぶ必要があると思います。

お金について単に毛嫌いする


天然でいられない


空っぽな生き方に憧れてきました。

天然とも言えるような、
空っぽであるがゆえに、どんな
ものでも受け入れられる、

そんな生き方です。

のらりくらりと
空っぽであれば
楽だし生きやすいかなと。

自分が空っぽで
色んな人のパイプになって
うまく器として機能してるっていうのに憧れてたんですけど、

どうしてもそんないい感じのアホには
なりきれなかった悲しさがあります。

こんな人生を生きよう、
と理想をかかげたところでもう
天然には生きられなくて

逆に自分の「身重(みおも)」
なところが意識されて
辛くなるという感覚です。

最近、これは女性の身体を持っている
というところとも絡んでくるような
気がしているんですが、

逆にいよいよ「身重」に
なることが人生の方から
求められている

そんな感じがこのごろします。

「身重」になるとはどういうことかというと
責任を負う、とか人の面倒をみるとか

身近なところで言うと
ちゃんと家事やら後片付けを
しなきゃならないということだったり

仕事だったら、もっと
重い責任ある仕事だったり、
めんどくさい事後処理だったり

それ自体にはまったく
華がなくて、地味な、けれども
だれかがやらなきゃならないものを背負わなきゃならない

そんな辛さを実感します。

でも、それを背負うことでまた
新たな人間性のようなものが
生まれてくるんだと思います。

といいますか、
そもそも元からそういう責任
って誰でも背負ってるもので

それにしみじみ気付くか気付かないか
の違いでしかないんですけどね。

そろそろ
背負うことの原理とか、
責任論にでも手をだそうかなと思う今日この頃です。

自分の冷淡さにくるしむ

私はなんて他人のためを思えないんだろう、
ここまで冷淡だなんで思わなかった…

こんな感じで自分の
冷たさを自覚して苦しむことってないですか?

「他人を思いやれない」
について考えていきたいと思います。

結構自分は冷めきってるな、とか
もっと言うと、人のためを思えないとか
思っている人はいったい何を思っているのでしょうか。

これは単に、どれほど自分が
冷たさと痛みと苦しみの中で
耐えてきたかに影響するところがあります。

こういった苦しみの中でもがいてきた人程
思いやりがある…

ではなく、

そういう人程実は人に痛みと苦しみを与えようとします。

なぜなら、自分はもう
苦しみを乗り越えてしまっているからです。

そして他人にも、自分はこんなに
痛い思いしたんだから

あんたも苦しみなさい
社会って、人生って
そういうものよ。

苦しんだ分だけ偉いんだと、

乗り越えた私は
すごいんだと
誇示したいのが透けて見えてくる人いますよね。

いえ、たしかに苦しみ乗り越えたのはすごいですよ。
でも、それを他人に誇示して

マウントを取とかするのは

ちょっと違うと思う…、、

自分の…

このごろますます
自分ってのは空っぽで
単なる入れ物だなと思えるようになりました。

他者からの声
に応答しているだけの
入れ物だなと思えるようになって、

いったい主体性とか、能動的とか、
自発的に仕事しなさい、ってどいうこと?

ってなります。
これらの語りが間違っているとか
言うつもりはなくて、

ただ語りに対して
意見をひねり出して…

でも、これは
完全に他者への応答で成り立っています。
他者がいるからこその自力であるという
面白いところまでいきました。

優越感にひたれる場所

人は優越感に浸りたいものです。

とある本をむしょうに読みたくなって
何でか考えてみたら、
優越感にひたりたいから

ということが分かりました。

絶対思考が鍛えられて、
いい記事書いて優越感にひたれる

そんな気がして
本を読もうとしたり、
ネットの記事見たりします。

なるべく優越感にひたれる場所にいたい
わけですが、ではいったいそんな場所はどのように
生成されるのでしょうか。

優越感にひたれるということは
少なくとも自分より「下」とみなしうる
存在がいるということです。

だれかを「下」にして
自分を押し上げようとしているのは
あくまで虚業にすぎないです。

隠しと抽象化

あまりビジネス的なこととは
関係ないかもしれませんが、

隠しと抽象化は重なるところがあるという
話をします。

いつも使っているパスワードを
変更しようかなと思ったのが
きっかっけです。

誰にも分られないようにする
ために、

パスワードって
抽象化されたワードを使いがちだな
と思いました。

「隠す」ために自分の好きな
言葉を抽象化する。

隠したい言葉を抽象化された
言葉で「覆う」ことが
ここでは行われています。

抽象化はよくフレームワークなど
で行われる思考法ですが、

実はこのように、具体性を
「隠す」というはたらきも持っている
というのは一考に値するかもしれません。


「弱さ」の発見

ほんとーに私は
何もできないんだなと
自覚しました。

いきなり何を言いだすのか
という話ですが、

今日は自分がいかに「弱い」かが分かって、
逆に「強く」なったという話をします。

私たちは自分の弱さを
隠すように、
自分が劣った、無力な存在であることを

見ないように生きています。

なので、ちょっと思ったより
できないと、かんしゃく起こしたり、
自分に対して怒ったり、卑屈になったりします。

でも、今回経験したのは
こういった感情が湧いてこない、

なんだか突き抜けた
「弱さ」を自覚した体験でした。

会社からの帰りの電車やバスで
いつもなにげなく一日を振り返りますが、

自分のできなかったことを
反省することが多いです。

今日もそんな反省がはじまったのですが、
新たな問いが沸き起こってきました。

できなかったことに対して
「あーなんでまたできなかったんだろう」
って自分の弱さを自覚するとともに、

自分はそもそも本来そんなにすごい
存在なのか?

と、ふと疑問に思いました。

この身体は有限だし、
いつかは無くなるもので、
自分でコントロールできるのは一部でしかありません。

さらに言うと、自分には人生を
自由にすることはできなくって、
絶対どこかで不自由が発生します。

人をコントロールする力もないし、
自然の営みを自分の好きなように動かすことも
できない。

人間にできることって
本当に限られていて、
大きな視野で見たら本当にちっぽけな存在です。

この、
まったく言い訳の余地がない程
完全な無力を自覚しました。

でもそこから
この完膚なきまでたたきつぶされて、

なにもできないことを自覚した
新鮮さがおしよせてきました。

逆に今までこんなに自分は
できる存在と思い込んでいたのか!
という驚きもありました。

一切が無力
であるがゆえに新しいことを

学ぼうという姿勢がおのずと
でてきます。

この謙虚な姿勢を培えたこと、

これが「強さ」になる、
と思ってます。

マカロンに学ぶブランディング

先日マカロンを食べました。

その時の気づきを共有します。

マカロンはとっても甘くて、
正直好き好んで食べるお菓子じゃありません。

あまり自分で買って食べることは
しないお菓子です。

でもホワイトデーという
ことでもらったので仕方なく食べました。

すると、意外にも
いつもよりおいしく感じられました。(^^♪

なんでかって考えてみると、
味がよかったというより、

それを食べている自分が
気に入った、ということろが
大きいです。

ハンバーガーとか焼きそばを
食べている自分より、

マカロン食べてる自分の方が
ハイセンスな自分になれていて
好き…

パステルカラーに彩られて
かわいくておしゃれな、
並べて写真撮りたくなるような

そんなお菓子を食べている自分
はなんだか特別…

と、食べているときは
ここまで過剰にイメージ膨らませたわけでは
ありませんが、

だいたいこんなような
気分で食べてました。

味としてはそれほど食べたいと
思わないものでも、

「どんな理想の自分になれるか」

これを買い手にイメージさせたら
オッケーということです。

これがいわゆるブランディングの
原理ですが、

今回具体的に体験させていただいたので
つい書いてしまいました。

以上。

構えの美学

最近アニメのオープニングを見て高揚感
に浸ってます。

特に剣裁きがかっこよく映されてる
オープニングとかキレのある
動きで作画がすぐれているのを見ると

たまらないですね。

で、気づいたことがありまして、
剣振るところかっこいいと思ってましたけど
剣振るところだけじゃなくて

剣を振る前の「静止」がうまく
演出されているから
振りかざす時かっこよく映ってるなと。

キレは
その前の「静止」あるいは「構え」と
言った方がいいのかもしれませんが、

この「構え」がいかに
整っているかによるんだなと
思いました。

剣を振った後の「静止」も
意味あります。

とにかく、鋭い太刀裁きの前後に
くる止まっている演出が大事です。

では、この前後の止まっている
状態は何を生み出しているかというと、
剣を振った後の余韻をつくり出しています。

ここらへんの演出で
高揚感を誘う演出かどうかが
決まると思いました。

もちろん素人考えの
演出理論ですが、

この「動き」と「静止」の
メリハリによって効果を生み出す、
ということは日常的に起こる現象だなと思っています。

例えば、それまで
目立った立場でない、裏方でひっそり
作業するのがメインだった人が

ある日、鋭いアイデア出してきて
急に存在感出してきたり、

そういう人が発言の場を与えられて
ぐっとくること言ったり、

そういった、
ギャップの応用とも
言えるんですけど、

「動き」と「静止」をうまくつかって
人を動かすことを意識してみると
面白いかもしれません。

興味ない→興味ある

全くビジネス関係ない事に夢中になってたら
気づけば日付が変わろうとしていました。

急いで書きます。

今日は興味がない分野に興味を持つ方法
というテーマでいきます。

興味を持ったら一途に
追いかけるのに、

興味のない分野やら、人やら
になると途端にやる気がうせます。

仕事でもそれが顕著らしくて、
単純作業は嬉々としてするけど、

いざお客さんとちょっと複雑な
打合せがはじまるとなると

目に見えて気力を失っていくらしいです。
(自分では気づいてませんけど…)

興味ないことに
興味を持つのは難しいなと思います。

でも、私にはひとつ、
興味なかったけれど
興味持つようになった分野があります。

まあ、それはビジネスの原理について
考えて学ぶことなんですけど

じゃあいったいどうしていきなり
夜中まで勉強していたくなるほど

この分野が好きになったのか。

いままでビジネスと言うと、目標達成することや、
結果を出すことにのみ特化して展開される
分野だと思っていたけれど、

そうじゃなくて、
もっと人間の原理的で本質的な
ところとつながっていると知ったからです。

それまで、「これはこういうもの」
と思っていたけれど興味持ったり、好きになるのは
視点が変わったからです。

一度植え付けた固定観念が
壊されたところで
人は興味持つようになります。

なので、
もっといろんな事象について
因数分解して、

色んな見方をして
もともと何だったけ?となるまで
ごちゃごちゃにして、

またもとの固定観念に戻って見直してみると、
今まで見えてこなかった良さが見えてきて
興味が湧いてくるかもしれません。